平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

言葉の海に溺れていたようで。

すっかり放置したままですまない。ほっぽり出していたわけではなく、ほぼいつの時も「そろそろ書かないとアカンなあ」と思っていたのだけど、どうしてもその気になれずにこんなにも間があいたというわけである。ときにはダラダラと愚痴をこぼしてしまう私的なこんなブログでも、楽しみにしてくれている方々があそこにもそこにもここにもいるわけだから、そこんところをもう少し意識しながらこれから書いていこうと思う。

「更新の停滞」についてはこれまでに幾度も書いてきたわけだが、いつの時もそれなりの理由というものがあったように思う。それは誰にも理解されるような明確なものではなくて、僕自身の心の中で完結するものだったりする。どうしても書けずにいた頃を思い返してみると、往々にして「書く」という行為そのものに対してあれこれと考えていたようである。つまり「言葉」の問題である。

言葉というのは誠に奥が深くて、考えれば考えるほどに頭が変になってくる。あまりに言葉にフォーカスをして物事を考えていくと、「言葉にしなくてもいいこと」や「言葉に置き換え不可能なこと」さえも言葉にしようとして、頭がこんがらがってくるのだ。哲学するにはそれなりに言葉との距離を保っておかないと、たぶん自分が壊れてゆくのだろうと直感する。言葉に魅了されたが故に言葉にしがみつきすぎて、ありとあらゆる現象を書き表そうとして途方に暮れる。まさに言葉に「居着いて」しまっていたということだろう。

「共通感覚」「暗黙知」「身体知」などは、言葉ならざるものとして定義された言葉である。ややこしいがそういうことである。コツやカンといった感覚的なものは、確かに言葉にはなっているけれど、その中身を言葉で的確に言い表すことができない。ラグビーボールをスクリューさせながらパスをする技術は、その仕方において説明することはできても身体でパフォーマンスできるまでは自らが繰り返し練習する必要がある。そのときに「あっ、わかった」となる感覚的な何ものかがコツやカンであるからして、だから教育というものは難しく、特にスポーツのような身体運動をともなうものはパフォーマンスに直結するから難解極まりないのである。

『木のいのち木のこころ』には、宮大工が習得した技術がどのように受け継がれているのかについて詳しく書かれている。一つの技術がどれほどの年月と信念をかけて受け継がれているのかを目の当たりすれば、スポーツの現場がどれだけ思慮浅きものであるかは明白である。指導者がダメだとか、チームや学校がだめだとか、そういうことではなくて(子どもたちを前に熱意を持って指導されている先生やコーチはたくさんいる)、スポーツそのものへの理解が乏しいがためにたとえば先生業の片手間で事足りると考えられている学校スポーツのあり方だったり、金銭に換金され得る競技能力の優劣を競いがちなプロスポーツのあり方だったり、つまり身体運動たるやスポーツを人間的な営みであると解釈することなしにどんどん社会におけるポジションが高まりつつあることが解せないのである。

自分の技術を磨く、それはつまり試行錯誤を繰り返しやがては身体化させるまでを意味するが、そうして身につけた技術はそう簡単に言語化できるものではない。だから本質的にいえば技術というのは選手自身が真似て盗むべきものなのだ。達人の技を盗むために生活を共にするといったことが昔の日本では当たり前に行われていた。丁稚奉公という制度もそうだろう。本人にとっては当たり前にできる技術、つまり身体化された技術は、いくら言葉で長々と説明したところでそのすべては伝わりはしない。習う側に、真似よう、盗もう、言葉一つ一つに注意を向けてその行間を読んでやろうという意識がなければ無理である(きっぱり)。

ただそれでは取りつく島がない感じがするのも事実である。生涯現役でいられる職人とは違ってスポーツ選手は現役でいられる時間がわずかであることを思えば、指導者もわかりやすく覚えさせる術はある程度は必要となってくる。手を変え品を変えて選手に伝えていくことが、スポーツ指導者の役割であろう。

閑話休題

「更新の停滞」について書いていたのだった。つまりは何が言いたかったのかというと、「書けない、書けない」と知らず知らずのうちに思いこんでいたのは、言葉にできない領域のことさえも詳細に言葉にしなければと力んでいた故のことだということである。暗黙知の領野で解釈すべきことを明確な言葉で説明できない自分がもどかしくなり、「ああオレは書けなくなったのだ」という思い込みに至ったのだと思われる。

言葉というのはまことに不思議で、それでいて面白い。あまりに言葉について考え過ぎると書けなくなってしまう。過剰であり不足する言葉というものとの付き合い方には細心の注意を払って然るべきなのである。「言葉にしない方がいいこと」は、言葉にしてはいけないのである。

たぶんこれからもこうしてくどくどと考えながら書いていくことだろう。
どうかこれからもよろしゅうに。