平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「闘う」ということ。

それぞれの持ち場で「闘っている」人たちの発信をリツイートしたら、なんだかやる気が湧いてきた朝。いまからゼミ。僕も教育という現場で目の前のことに精一杯、尽力しよう。さあて、「闘い」にゆくとするか。

 

今朝、twitterでつぶやいた内容である。現実世界で顔見知りの方々を含め、それぞれが持ち場でやるべきことをやっている。名を名乗り、自分が誰だかを明らかにしたうえで主張すべきことを主張する様に、思わず元気づけられたのでこうつぶやいたのだった。匿名でつぶやく人を否定するわけではもちろんないのだが、「名を名乗って」の主張にはやはり大きなリスクが伴う。それでもなお言いたいことや言うべきことをかたちにして残す人が、こんなにもたくさんいる。なんだか背中を押されたような気持ちになったのである。

「闘う」というのは大げさな表現かもしれない。たかだかtwitterでなにを大げさなと思うかもしれない。だが、東京五輪についてなどの主張を繰り返す僕からすればこれは決して比喩ではなく、発言する者の身体実感として大いなるリアリティを感じている。

たとえ短い文章であっても、そのことば遣いには発信する者の根本思想なるものが表出する。「です・ます」にするのか「だ・である」にするのか、ひらがなに開くのか漢字を用いるのか、専門用語に頼るのかそれを具に説明するのかなど、こうした細かなこだわりが読み手の無意識に働きかけ、ニュアンスをともなって伝わってゆく。雑なことば遣いならともすれば誤解されることもあるわけで、それを回避するために発信する者は細部にわたって自らのことば遣いを点検している。少なくとも僕はそうである。

「伝えたいこと」はことばにするから相手に伝わる。コンテンツをことばに置き換えるこの作業には、それなりの緊張感が求められる。そこにはちょっとした、いや割と大きな勇気が必要なのだ。それをあらためて実感したのが今朝だった。

SNS全盛のいま、膨大なことばがネット上で量産されている。一見したところ、空疎で読むに値しないものばかりのように思えるが、じっくり目を凝らし、耳を澄ませば実に滋味深いことばを見つけることができる。日々の暮らしから生まれた、つい共感して心が晴れるようなことばが。それらを発見する感受性を、これからも大切に持ち続けていきたいと思う。