平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

過密スケジュールを前に武者震い。

前期も半ばを過ぎようとしている。いい具合に温まってきた授業もあれば、まだエンジンがかかってこない授業もある。昨年に比べるとリアクションに乏しい学生が多いように見受けられ、伝わっているのかいないのかが聴講態度を観察していてもどうにも掴みづらい。毎回必ず書いてもらうコメントペーパーからは、それなりに伝わっていることが読み取れるものの、それを話をしながら把握できないので講義後にため息が出ることもある。学生からの瞬発的なリアクションを求めない。そう自戒してずっとやってきたから、この類の脱力感はわりとラクにいなせるのだけれども、時と場合によっては時間がかかることもある。マルチタスクによる疲れが心身を直撃しているときとか、寝不足のときとか、気圧の変化による影響で首や背中に怠さを感じるときとかに、である。つまりはこちらの体調によるのだけれども、どこまでいっても、何歳になっても、承認欲求なるものは意外なところで頭をのぞかせてくるものなのだなと思う。

そんなことを考えながらスケジュール帳に目をやると、またまたため息が口をついた。6月の半ば過ぎまでびっしり予定がつまっていることを、あらためて目の当たりにしたからである。忙しいというのはそれだけニーズがあるってことだから、ありがたいことこの上ない。とはいえ、いつもとは違った筋肉を使うことになるので身体モードの切り替えをしなければならず、それなりのエネルギーを要する。てなわけで、このモードの切り替えをスムースに行うために、また自分のなかで整理する意味でも、どんな予定が待ち構えているのかをざっと書き記しておきたい。

まずは、とある出版社からの取材が一つ予定されている。内容は例のラグビーリーグワンの選手規定変更についてである。『スポーツウォッシング』のときにお世話になったライターさんと久々にお会いできるのはうれしい限りで、あれこれ思いの丈を話そうと思っている(記事になったときにはみなさまにご報告いたします)。続いて伊勢原スポーツデイ。これは成城大学恒例のスポーツ大会で、準備を含めると土日まるまる使う。今年も教職員チームの一員としてソフトボールに出場することになりそうで、久しぶりにバットを振り回してやろうと意欲満々である。

来週は、新刊本の初校ゲラの赤入れとあとがきの締切がドーンと控えている。スポーツに励む中学生に向けた内容で、彼、彼女たちの悩みやモヤモヤを解消すべくあれこれ話をしている。「話をしている」?。そう初めての聞き書き本なのだ。8月初旬に発売予定なので、手に取っていただければとてもとてもうれしい(こちらも詳細についてはあらためて報告いたします)。

それからもう一つの大きなイベントは、大阪でスポーツ関連の講演。久しぶりの大阪出張だから、講演後に何年も会っていない後輩と食事をする約束をしている。積もる話をたっぷりしてこよう。そしてその翌週はなんと講演が2つ。パイロット教育に関する研修で講師を務めるのと、とあるスポーツ団体の設立を記念したスポーツ関連の鼎談が予定されている。

2週間で3本の講演はおそらく初めて。繰り返すがこれだけニーズがあるのはよろこばしいことだから、嫌がっているのではもちろんない。ただ、先ほども述べたようにモードの切り替えをこまめにしなければならず、つまりそれ相応の体力がいるわけであって、いうなれば武者震いしているのである。当然のことながらこの間には講義も会議もあって、懇親会や学内プロジェクトの打ち合わせ&飲み、それから私淑する先輩とのランチと、昼も夜もびっしりで、おいおいオレは乗り切れるのかという不安は、まあなきにしもあらずである。

こんなにも予定を詰め込んだお前が悪いと突っ込まれれば返す言葉もないのだけれども、お座敷がかかったら断らないというモットーで仕事をしているのだから、タイミングがかち合えばこんな事態にもなりうるのは必然である。そんなことくらい当の昔に覚悟はできているのものの、いざその過密さを前にすれば、やはり、ちょっとはビビるってものである。

さーて、突っ走るとしますかー。

 

資料の文字化けに驚くも。

とある講義で使用するパワポ資料を開いたら、貼り付けていた画像が表示されず、ほとんどが文字化けしている。唖然とした。講義3コマ分ほどの内容が詰まったこのパワポ資料があれば前期の序盤はいけるなと、高を括っていたからである。こんなことは初めてだし、いったいぜんたいどないなっとるんやと心のなかで一人ごちながら、仕方がないのでその残骸を眺めつつ記憶を辿って作り直すことにした。

すると意外にもスムーズに再現ができた。いや正確には完全な再現ではないのだが、その分、新たにスライドを加えたり文言を加筆修正したので、以前とはやや異なる資料になってしまった。でもまあほぼほぼ元に戻ったといっていい。この資料が東京五輪2020大会に関する内容で、これまで講義や講演で何度も話をしてきたので、しつこく記憶の底にこびりついていたのでしょうな。なんと小一時間ほどで作成完了。これでなんとか明日の講義を心穏やかに迎えることできる。

明日から講義も3週目。学生に書いてもらったコメントペーパーのフィードバックも始める。短絡なようで率直な、単純なようでいて端的な意見の数々はどれも傾聴に値する。それにワクワクする気持ちを忘れないように、今期もまた講義を進めていこう。

 

SGE主催のシンポジウム&掲載記事のお知らせ。

スポーツとジェンダー平等国際研究センター主催のシンポジウムが3月に開催されました。全部で3部構成になっており、スポーツをじっくり考えるためのテーマが設定されています(詳しく知りたい方はリンクをクリックしてください)。

僕はそのうちのひとつ、「スポーツ・クリティシズムの挑戦ーーーーー身体はどこまで知っているのか?」に登壇しています。

             →https://youtu.be/CUMTl-akSkA?si=LKaT43NvoPd-PiEU

当日の様子がYoutubeにアップロードされましたので、ぜひご覧ください。スポーツについて書き、話すときの態度を示す「スポーツ・クリシティズム」は、肥大化するスポーツに歯止めをかけ、その健全性を取り戻すためのキーワードになると考えています。


それから一緒に登壇した田原和宏さんがシンポジウムの様子を記事にしてくれました。
併せてお読みいただければと思います。

mainichi.jp

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懐かしく目を細め、怪訝に目を細める。

本日は初等学校の入学式。講義を終えて研究室に戻る道中、綺麗に着飾った家族が子供と手をつないで歩いている姿をたくさん見かけた。初等学校から最寄駅の成城学園前駅に向かうには、キャンパス内を横断する必要がある。あたたかな陽射しを浴びながら、ちょっと得意げな表情を浮かべる親と子供を眺めながら、昨年は僕もその内の一人だったんだよなと目を細めた。あれから1年…。決まり文句中の決まり文句だから書くのが憚れながらも、つい書いてしまうのだが、トキガタツノハホントウニハヤイ。

午前中の授業が終わってすぐ、湊川にある行きつけの鮨屋の店主からラインが入る。イランとアメリカが即時停戦で合意したと、NHKが速報を打った旨を知らせてくれた。肩の力が抜けるとともに、4月10日にパキスタンで行われる両国間の協議が何事もなく進むことを願う。

この地球上で戦争が行われているという現実は、戦地にいる人たちの生活や命を脅かすとともに、そこから遠く離れている私たちの心をも削り取る。ミサイルが着弾した瞬間の爆音と砂煙、爆撃で破壊された建物や街並みに、血にまみれながら苦悶の表情を浮かべる人たちなどが、スマホやPCの画面に映し出され、それら映像を目にするたびに眉間に皺が寄り、胃が締め上がる。それに追い打ちをかけるかの如く、独裁的指導者の非常識で口汚い言葉の数々が畳み掛けてくる。

怪訝に目を細めて首を横に振り、ため息が出る。気がつけば無意識のうちにそんな仕草をしている。

今いるこことは遠く隔たった場所での出来事が、身体のある今ここにある現実に、リアリティを伴って侵入してくるわけだ。こうなると現実世界に戻るまでにそれなりの時間がかかる。想像力の広がりとともに遥か彼方へと向いた意識を今ここに引き戻すのは、僕にはそう簡単なことではない。

授業の準備のために開いたノートに視線を落とし、ときおり頭を上げてパソコンの画面を覗き込む。この一連の作業に集中すべく、心を整えなければならないのだが、脳裏に焼きついた凄惨な動画や情報がそれをことごとく邪魔してくる。振り払おうにも振り払えない。煙草を吸いに喫煙所まで歩いたり、好きな本の、付箋を貼ったお気に入りの箇所を読み返したり、デスク周りを整理したり、ゴルフクラブで素振りをしたりと、どうにかこうにか工夫を凝らしたあとになって、ようやく吹っ切れる。たぶん、ほとんどの人はこの切り替えを難なくこなしているのだろうが、僕にはまだそれがうまくできない。

共感体質なのか。いやそうじゃない。ただたんに鈍臭いのだろう。知覚した情報に捉われてしまっているわけだから。もしかするとこれはある種のアスリート体質なのかもしれない。あらゆる情報をつい感性的に受容してしまう。それゆえに、そこで揺れ動いた感情や感覚が余韻を引く。波打った感情や感覚を、頭で押さえつけることは相当に難しい。というか不可能だ。

こんなんじゃ、からだがいくつあっても足りない。さらりとまでいかずとも、なんとか身をひるがえして受け流す術を身につけたいものだ。



眩暈、吐き気、唖然、嫌気、そして怒り。

明日から前期の授業が始まる。どの授業も1週目はガイダンスだから、その準備にはほとんど時間がかからない。講義ノートを開いて昨年の内容を振り返り、おおよその流れを頭に入れておけば十分だ。しかも、授業では学生にコメントペーパーを書いてもらい、それにフィードバックをするのだけれども、学生の興味関心に沿うかたちでどんどん脱線するので、必ずしも当初に決めたように授業は進まない。だからこそ「おおよその流れ」さえ頭に入れておけば、つまり方向性さえ示せれば第1回目のガイダンスは事足りる。簡単な自己紹介を添えて、この授業ではどのようなことを学ぶのかがイメージできるように、明日は話をするとしよう。2年目だから心に少しの余裕が生まれていることに、安堵している。

それにしても世界は混迷を極めている。というよりも狂っている。それも完全に。オバマ夫妻を猿呼ばわりしたり、イランの人々を動物だと侮辱するトランプ米国大統領の発言には空いた口が塞がらない。仮にも一国のリーダーたる者が口にしてよい言葉ではないし、それよりもなによりもひとりの人間として決して吐いてはならぬ言葉なはずだ。差別的発言や嘘を、まるで空気を吸うように口にし続ける人物が、大国のリーダーを務める世界に私たちは生きているわけで、そうしたにわかには信じ難い言動があとからあとから飛び込んでくるSNSのタイムラインを眺めていると、眩暈がしてくる。

それにともなう我が国の首相の振る舞いや言動には吐き気を催す。木で鼻をくくった答弁に終始しながら、Xでの投稿をもって説明責任を果たしたかのような態度には唖然とする。SNSに群がる有象無象の人たちによる、てんで見当はずれの言明にも、ほとほと嫌気が差す。まさか戦争反対の態度を示すことに注意を払わなければならなくなる時代が到来するとは、思いもよらなかった。

イスラエルによるガザの人々の処刑には、こうして書いているだけで指が震え、魂が抜けていくような脱力感を覚える。今のこの時間にも、幼い子供を含めた人命が失われているのかと思うと、底知れぬ怒りとやるせなさが湧いてくる。人間はどうすればここまで残酷になれるのか。これまで積み上げてきたものがガラガラと崩れ去る音が、僕にははっきりと聞こえる。聞こえながらも今の自分にいったいなにができるのだろうと逡巡することしかできない。もどかしい。ほとんどなにもできじゃないかというもうひとりの自分からのツッコミに何も答えられず、ただただ立ち尽くしているだけだ。情けない。

それでも時間は過ぎる。ご飯を食べてビールを飲み、家族でテレビ番組を観て笑い合っていれば明日が来る。このギャップにふとしたときに気づいて、途方に暮れる。スマホやパソコンの画面をシャットダウンすれば、あれやこれやの残酷物語からしばらくのあいだは離れられる。その気になれば、なかったことにさえしてしまえる。そんな毎日に心とからだが擦り切れないわけがない。

そんな思いを胸に、明日からまた目の前の仕事をひとつひとつ、着実に、淡々とやり切る。
それしか、ない。手の届く範囲で小さな信頼を積み上げていく。


成城大学での2年目の始まり。

今日は入学式。新入生と思しき人たちが学内に溢れ返っていて、僕にとっては2年目となる2026年度が始まりを告げた。明日の新入生オリエンテーションでは共通教育科目についてのガイダンスを担当する。説明する資料をいただいたものの内容がまだきちんと整理できていないので、開始時刻までには頭に入れなければならない。他学部での説明をこっそり覗きに行って勉強することにしよう。

思い起こせば一年前の今日は、山積みになった段ボールをひとつひとつ解いていた。手がカサカサになりながらの作業は体力を消耗したけれど、本を書棚に並べる作業は大いに楽しんでやっていた。おおよそのジャンルごとに分けつつ、自分にとって大切な本はデスク近くに、おそらく読み返さないであろう本は奥に置くか遠ざけるなどして。その途中、懐かしさのあまりページを開いたりと、作業が中断することもままあったが、数日にわたってなんとかすべての段ボールを開けたのを思い出す。あれからもう一年も経ったことにちょいと信じられない思いだが、大きなトラブルもなく今日までやってきて、無事に2年目を迎えられたことにはやはりホッとしている。

新天地での仕事にどことなく気持ちが浮ついていて、それと同じくらいの不安な気持ちを抱きつつも、すべてが目新しく見えることに意気揚々とする。そんな心境だった。1年間を通して、学生たちの気質もつかめてきたし、年間スケジュールをこなすためのおおよそのペースもイメージできるから、当たり前だけど去年とは心の平穏さが格段に違う。職場での仕事も普段の生活も、「すっかり馴染んだ」とはまだ言えないにしても、よくよく振り返れば「馴染みつつある」ように感じられる。気持ち新たにまた今年度も着実に、淡々と仕事に向き合うとしよう。

縄跳び、『ブッダ』、知的好奇心、学び。

2026年度初日はあいにくの雨。まだ春休みの娘とともに大学の研究室へ。僕がパソコンの前で資料を作る傍ら、縄跳びをしている。春休みの宿題に「二重跳びを連続5回」が出ていて、その練習をしていたのだが、なんと連続で14回も達成できた。我が子ながらなかなかやるやないかと目尻を下げる。ほどなくして娘は真剣な眼差しで手塚治虫『ブッダ』を読み始めた。その様を眺めながら、それにしても『ブッダ』はもうすぐ小学2年生の娘には難しすぎやしないかと本人に訊ねてみると、「むずかしいけどおもしろい」と言う。

たとえ読めない漢字があっても内容がすべて理解できなくても、「おもしろい」という娘の返答にハッとした。ラグビーの現役選手を引退してまもなくだったか、西田幾多郎『善の研究』やメルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読み始めたときの僕がまさにそうだったからだ。難解な熟語と専門用語をその都度調べ、それでもよく理解できないままに読み進めることができたのは、「おもしろい」という手応えだった。ところどころわかる部分をつなぎ合わせながらの読みを駆動したのは紛れもなく「おもしろさ」で、「ようわからんけどオモロい」のがまず先にあって「わかる」はあとからついてくる。「わかる」までに数年を必要とするケースもあるけど、突然閃くように降りてくる「あっ、わかった!」の実感はなんとも心地いい。

まさに知的好奇心が駆動しているときの実感が「おもしろさ」で、来週から始まる講義でもやはり「おもしろさ」の追求は欠かせないよなとあらためて思い直す。また今日も娘からひとつ大切なことを教わった、というか思い出させてくれた。すでに知っていることを思い出すのもまた学びの一形態であり、それにはそこはかとない懐かしさがともなう。この懐かしさには、かつて自分が学んでいた事実が再び思い起こされるから、ちょっとした自信へとつながる。過去からの贈り物を受け取るようなこの感じは、学びがもたらすほとんど最大のよろこびだと私は思う。

誰にも知られずにコツコツと学んでいたことが、いつか、やがて思い出すときがくる。その瞬間のよろこびを微かに期待しつつ、いま学べるだけ学んでおかねば、だな。娘もまたいつか、『ブッダ』を読んで感じていたことや考えたことを思い出すに違いない。