平尾剛のCANVAS DIALY

Twitterでは語り切れない思いや考えを、ここで書いています

特別番組【STOP TOKYO OLYMPICS だから私は五輪中止を求めます】に出演して。

先日、特別番組【STOP TOKYO OLYMPICS だから私は五輪中止を求めます】に出演した。いかにリンクを埋め込んでおくので、興味のある方はぜひ視聴してほしい。

 

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6人の出演者が交互に宇都宮けんじさんと対話を繰り返す番組編成で、僕は現役看護師の渡辺さん、ダースレイダーさんに続く3番目に登場します。出番を待つあいだ、そして出番が終わったあとも他の方の話を聴いていて、感じ入るものがあった。今日のブログは備忘のために感じたこと、考えたことを書いてみたい。

まず現役看護師ワタナベさんのお話からは、逼迫する医療現場のリアルが伝わってきた。ワクチン予約の電話がパンクしており、それにともなって電話がつながらず直接来院する人への対応に追われていること。それから非常時にお願いする応援ナース(非常勤)の手配に遅れが生じており、厳しい情況にあると話されていた。4月の終わりに大会組織委員会日本看護協会に500人の看護師の派遣を依頼したことには「ありえない」と明言。最後に述べた「五輪は、今すべきではない」との断言は、真摯に受け止めるべきだと思われる。

その次のダースレイダーさんのお話で印象に残っているのは、次の通り。
・深刻にならずに「中止」そのものをお祭りにする
・先の敗戦でも明らかなように、日本は「途中でやめること」が下手。というかできない。東京五輪をきっぱり「やめること」によって、日本全体が戦後引きずってきたものにケリをつけるべきだ
・コロナが流行る前から指摘されていた「暑さ対策」がなおざりになっている
・スポンサーだから指摘できないのではなく、スポンサーだからこそ運営が健全であるかどうかをきちんと報じる必要がある
確かに「暑さ対策」については僕自身すっかり失念していた。ビルのドアや窓を開けて冷風を送るとか、打ち水をするとか、朝顔を植えるとかの、非現実的な対応に終始する主催側に唖然としたのを思い出した。抜本的な対策が決まらないままでは、観客やボランティアが熱中症でバタバタと倒れる事態にもなりかねない。懸念されているのはコロナ対策だけではない。

それからスポンサーに関する指摘については気づかなかった。東京五輪は、大手新聞がスポンサーに名を連ねていることに問題があると思っていたが、そうではなかった。

そして最後に、日本は「やめること」が下手、というよりできないという指摘はもっともで、最後に登壇した内田樹先生もこの点を指摘し、宇都宮さんも頷いていた。「最悪の事態を想定する」のを集団的に忌避するのが日本であり、最悪の事態を想定するから最悪の事態に陥るのだという世にも不思議なロジックで、警鐘を鳴らす人たちの声を封殺してきた歴史があると。

リスクテイクとは、最悪の事態を想定した上でそうならないように対処を行うことを指すはずで、だから日本では本当の意味での「リスクテイク」は為されない。

そういえば以前、神戸大学の小笠原博毅さんが、リスクは「ヘッジ」するものではなく「テイク」するもの。だから厳密にいえば「リスクヘッジ」という言葉遣いは間違っているという内容のお話をされていたのをふと思い出した。さらにリスクには「勇気を持って試みる」という意味が含まれているから、つまり「リスクテイク」とは、最悪の事態をきちんと想定し、情況を鑑みた上であえて挑戦する、という意味になる。

この意味でいえば、開催ありきでことを進める主催側の動きは「リスクヘッジ」であって、たとえるなら車を運転するドライバーが目隠しをしてアクセルを踏み込むようなものだ。事故を起こしてけがをするのが自分たちだったらとくになにも言わないが、実際に運転席に座るのは国民である。自分たちは安全な場所にいながら遠隔操作でそれをしているわけだから、タチが悪い。とうてい見過ごせるはずがない。

お二人は、感染者の急増が止まらないなかでも開催されるのではないかという悲観的な見通しを語っているが、話を聴いていると僕もそんな気がしてきた。コロナ禍の収束が見えないなか、いくらなんでもこの情況での開催はないだろうとうっすら思い始めていたが、先に書いた「やめることができない」日本的な思考習慣と、西側諸国がボイコットした1980年のモスクワオリンピックや、パレスチナ武装ゲリラがイスラエルの選手とコーチを誘拐し、死者が出た1972年ミュンヘンオリンピックでさえも開催した歴史的事実を合わせると、このまま強行に開催されることは大いにありうる。彼らにとってみれば、社会的に弱い立場の人たちの生活が虐げられることも、医療従事者にさらなる負担をかけることにも、うしろめたさを感じないのだろう。そう考えると目眩がしてくる。

宇都宮さんは、反対を表明することを恐れすぎだとも言っていた。反対したことで拷問されるわけでも、特高にとらわれることもないのだから、もっと自由に議論をすべきであると。このたびの署名運動を始めた動機にも「議論を巻き起こす必要性」があると冒頭に語っておられたし、そもそも反対表明を自粛する人がこんなにもたくさんいることを気持ち悪く思わなければならないという指摘は、至極その通りだと思われる。

このまま東京五輪が開催されれば、日本社会に大きな大きな爪痕を残すのは明々白々である。それでもなお開催に向けてことが進んでいるのが現状で、東京五輪関連のニュースを目にするたびに腹の底からふつふつと怒りが湧いているのだが、この状況下においては開催国に住む一人としてただ指をくわえて時間をやり過ごすことはしたくない。

そこで内田先生の以下の指摘を胸に留めておきたい。

今のこの緊急事態において、誰がどんなことを述べ、どんな行動をしているのかを記憶しておくこと。もし開催されればメディアはこぞって盛り上げ、大会が終われば「やっぱりやってよかったね」という肯定的な記事が並ぶはずで、大会を冷静に振り返ることができなくなる。公文書も破棄されて真実は闇のなかに葬られてしまうだろう。また、大会が終わってから「実は反対だったんだよね」と発言する人もわらわらと出てくるはずだ。だからこそ、誰がどのような言動をしていたのかは具に記憶しておきたい。そうしてモチベーションを保ちながら、今後も五輪反対を言い続けようと思う。

殴り書きになってしまったが、僕自身の備忘録ということでどうぞご海容ください。

初ゼミと『教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術』。

今日から春学期が始まった。最初の授業は3年ゼミ。ゼミのメンバーが初めて顔を合わせる時間は、毎年のことながら少なくない緊張がともなう。ゼミ選択の際に話をしている学生がほとんどだから、どういう分野に興味があるのか、将来はどのような道に進みたいのかなど、おぼろげながらに把握しているものの、学生同士の関係性まではわからない。プライベートで一緒に遊ぶほど親しくしている者同士もいれば、なかにはほとんど話したことがない者同士もいて、全体の親密さはいざ集まってみないとわからない。人と人とがよりよい関係性を築くためには初回が肝心で、これはなにもゼミに限ったことではないけれども、どのようにスタートするかでその後の展開が決定づけられることが多い。だから毎年、ちょっと緊張するのである。

 

一人ずつ自己紹介をしてもらって、この僕の心配は杞憂に終わった。ひとりひとりがユーモアを交えながらリラックスして自分語りをしていて、安堵した。すでに一定以上の親密さが形成されていて、アイスブレイクする必要などほとんどなかった。卒業までの2年間をじっくり時間をかけて学ぶことのできるゼミという「場」が立ち上がったことに、ファシリテーター役を務める僕としてとてもうれしく思う。

 

さて、今日は佐伯夕利子『教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術』(小学館新書)を読了した。2月の終わりにこの本を企画・構成した島沢優子さんから献本いただき、満を持して読み終えた。抜群にオモシロかった。著者の佐伯さんは、2003年にスペインリーグで女性初の監督に就任し、その後の活躍から2007年には『ニューズウィーク日本版』で「世界が認めた日本人女性100人」にノミネートされた方。現在はJリーグの常勤理事もされている。

 

この本では、2008年から務めているビジャレアルCFでの実践報告を中心にスポーツ教育の真髄が語られていて、僭越ながら僕が理想として思い描いていたスポーツ指導のあり方がここにあると思った。フットボール指導について書かれてあるけれど、その数々の知見は競技を問わず汎用性があると僕は思う。僕のなかでは池上正さんにもつながる佐伯さんのスポーツ指導論は、暴力的な言動がともなう指導が今もなお続いている日本では、必読の書だと思う。

 

詳しくはまた追って書くのでお楽しみに。それではみなさま今日もお疲れさまでした。

 

 

新年度を迎えて。

新年度が始まった。緊急事態宣言は解除されたものの、飲食店の時短営業は続いている。馴染みの鮨屋と焼き鳥屋の店の人たちは元気にしているのだろうか。ラグビーバーを営むあの人も元気にガハハと笑っているだろうか。挙げていけばキリがないけれど、僕がこのコロナ禍で感じるストレスは彼らと会えないことだ。テレビで漏れ伝わる飲食店閉店のニュースを見かけると、きゅっと胃のあたりが痛む。なんとか頑張ってほしいと願うことしかできないのがもどかしい。

年度替わりを機にブログの装いを変えてみた。背景色を変え、ヘッダーに昔カナダで撮った写真を飾りつけた。とくに有名な場所でもなく、バス移動の途中で休憩中にふとシャッターを切っただけの一枚。思いのほかしっくりきたので気に入っている。写真はふとその当時の記憶を連れてくるけれど、不思議とこの一枚からはなにも思い出さない。なぜだかわからないけれど。

今日は朝から新入生のオリエンテーションだった。コロナ禍のなかで新たなステージへと歩みを進めた学生たちと初お目見え。ラグビー部への入部を決めている、北海道からやってきた学生と立ち話をする。部屋にも言葉にもまだ慣れませんと、照れ臭そうに、でも楽しそうな表情で話をしてくれた。そらそうやで、まだ関西に来たばかりやもんなと、ありきたりの言葉を返す僕も、なんだか心が躍った。新しい出会いと、そして新しいステージの始まりをともにすることのよろこびが湧いたのだと思う。この3月と4月は、卒業していく者と入学してくる者が入れ替わる。いつもここにいる僕の前を4年周期で学生は通り過ぎてゆく。また新たに学生たちを迎え入れる、その瞬間はいつもうれしい。どんな授業をしてやろうと、思わず心のなかで腕まくりをした。

オリエンテーションの前後の時間で、新しくミシマ社で始める新連載の、初回の原稿を仕上げる。「スポーツのこれから」というテーマで書き綴っていくつもりだ。東京五輪が迷走に次ぐ迷走で、しかしこのまま開催されようとしている現状には、居ても立ってもいられない。聖火リレーの様子をネットで見ると、スポンサー車両が列をなしている写真が目に飛び込んでくる。聖火ランナーが霞むほどの行列に、いったいぜんたい誰のためのオリンピックなんやろうと、またしても頭を抱えてしまう。新型コロナウイルスの感染状況を顧みず開催ありきでことが進行するにつれ、それと並行するようにスポーツの価値はどんどん下落している。スポーツを見る世論のまなざしが、日に日に厳しくなる気配がありありと感じられる。それをなんとか食い止めるために、この連載ではスポーツにまつわることを書いていこうと思っている。アップされたらまた告知するので、時間のあるときに読んでいただけるとありがたい。

ここ数日はあたたかい。もうすっかり春になった。新型コロナウイルスの感染が広がっていようとも、この心のうちだけは明るくしておきたい。とにかく上機嫌で過ごすことを心がけながら、1日1日を過ごしていこう。

 

「不確実性」のなかにいる。

2月が終わるとともに僕の住む兵庫県では緊急事態宣言が解除された。昨年4月に発出され、5月に解除されたときと比べると、その解放感はまったく異なる。宣言後には閉塞感を、解除後には小さくない安堵感を覚えたのだが、今回は昨年ほどではなく、昨日までと同じような心持ちで1日が終わろうとしている。コロナ禍での生活に慣れたというのもあるし、宣言を発出しようが解除しようがCOVID−19はまだしばらく猛威を振るうと諦めているからでもある。

出口の見えない長期戦をストレスなく闘い抜くためには一喜一憂しないことが肝要で、そうして心理的に自己防衛をしているのだとも思う。補償という観点からすれば宣言をするしないで大きく異なるので、あくまでも僕の立場から言えばというだけだが、当たり前になりつつあるこのコロナ禍の生活がまだしばらく続くのかと思うと、やっぱり気が滅入る。

気のおけない仲間たちと飛沫を気にせず話をしながら酒を飲みたいし、馴染みの店にも気軽に足を運びたい。人が集まる市街地にも遠慮なく出かけたいし、首都圏をはじめとする県外の仕事もバンバン入れたい。知らず知らずのうちに他者との距離を気にするこの生活はもうたくさんだ。こうした欲望は公の場で口にすることが難しく、無意識的に我慢している。でも抑圧された感情は思いもよらない仕方で顕在化するので、こうしてブログでやや愚痴っぽく書き連ねてみると、ちょっとすっきりした。お目汚し、失礼。

それにしてもストレスというのは厄介だ。原因が明確ならまだしも、漠然としたストレスほど扱いにくいものはない。「なんだかわからないモヤモヤ」はいつの間にか心を濁らせてゆく。このコロナ禍であらためてそれを実感している。

いまのじぶんが感じているストレスを観察してみると、それは「ウイルスの感染拡大」ではなく、それがもたらす生活の不自由さであることがわかる。これまでの生活がままならない不自由さがストレッサーであって、ウイルス感染そのものではない。生活習慣を変えざるを得ない情況に突如として追いやられたことへの不適応が、ストレスの原因となっている。

そもそも「ウイルス感染」は歴史を振り返ると過去に何度も繰り返されてきた自然現象である。ペスト、天然痘スペイン風邪に、SARSやMERSなどがあって、いうなれば人類はいつのときも感染症の脅威に晒されてきた。ただそれを意識の外に追いやってきただけだ。つまり「考えないようにすること」で私たちはこれまで安心して日々の営みを送ってきた。厳しい言い方をすれば、思考停止に陥っていただけなのだ。

なんてカッコつけて正論を述べたところで情況が変わらないのはわかっているのだけど、考え方を整理することで幾ばくかの安堵が得られるのが僕の性格なので、もうちょっとだけ続けたい。

「ウイルス感染」が人智の及ばない自然現象なのだとしたら、その対策は誰がやってもうまくゆくはずがない。感染学の専門家であっても、人心掌握に長けたリーダーであっても、自ずとそうなる事象としての「自然」が相手なのだからすべてが事足りずに終わる。未知のウイルスへの対処法はだから、すべてが後追いになるのは自明で、この点における諦めならぬ「明きらめ」は必要だと思う。

リスクとは、経験的に確率的な予測ができるもの。だから管理できる。でもいまの社会は、経験知がなく確率的な予測も不可能な「不確実性」の状態にある。リスクそのものが把握できないのだから、予測も管理もできない。現象のひとつひとつを分析しつつ、現時点で考えうる限り最善の手を打ってゆくしかない。当然、そこには間違いもある。その間違いもまた分析して、さらなる次の手を打つ。そうやって積み重ねいくしか方法がないのが、この新型コロナウイルスが蔓延するこの社会である。

ここは押さえておきたいと思う。

ただ、だからといってここまでの国の対応を批判しないというわけではない。分析したその理路を私たち国民に充分に示してくれているとは言い難いからだ。不確実性がともなう情況では、どのような筋道でその結論に至ったのかを明確にしてくれなければ、安心は得られない。どの情報を頼りにしてその結論に至ったのかがわからない限り、不安は増幅する。先を見通せない夜道を、せめて安心して歩くためには適切な導きが必要だが、その導き方に誠実さが足りていないと僕は思う。

いずれにしても、今の私たちが不確実性のともなう情況に置かれているという自覚は、幾ばくかの安堵をもたらすはずだ。ここは忘れずにいたいと思う。

専門家と芸人コメンテーター。

まともにテレビを観なくなってしばらく経つ。ニュース番組とNHKのドキュメント、それからEテレの子ども向け番組を娘と観たりするくらいで、あとは観ない。たまにザッピングしても(あくまでも主観的にだが)くだらない番組ばかりですぐ電源を切る。とくに芸人や専門家らしき人たちがガヤガヤ話すだけのワイドショーには辟易としてしまい、余計なストレスが溜まるだけなのですぐに切ることにしている。1975年生まれの、テレビで育った世代の一人として、この凋落ぶりには驚きとともに一抹の寂しさを感じている。

1月だったか、とある週刊誌で「芸人コメンテーターは必要か不要か?」という記事を読んだ。そこでコラムニストの小田嶋隆氏が「芸人は芸能ニュース以外に口を挟むべきではない」と明確に述べる内容に溜飲を下げたのだが、その理由が実に明快だった。

・専門性がないのに「伝える力」に長けていることが問題
・庶民の視点は往々にして誤解や偏見を含んでいるから、専門家の目を通す必要がある
・にもかかわらず、視聴者が感じるモヤモヤとした感情を脊髄反射言語化してしまい、一方的な怒りや偏見が正しいとお墨付きを与えてしまう

 

自らの偏見を正し、高ぶる感情を抑制するために私たちは専門家の知見に耳を傾けるわけで、その意味でこれまでのテレビ番組はそれなりに有用な知見を発信していたはずだが、残念ながら今はそうではない。庶民的といえば聞こえはいいが、ほとんど素人な芸人コメンテーターは専門的な知見を有しておらず、中身のないただ耳あたりがいいだけの小気味よい言葉をユーモアでくるんで話す。抜群のタイミングで笑いを挟むので、油断をすればつい納得してしまいそうになるのだけど、その内容にはなんの根拠もない。一時的に胸の内がすくだけに終わる。

だから時間が経てばまた同じような疑問が湧き、不安も生まれる。

このモヤモヤとした胸の内は、従来の考え方や手持ちの知識では立ちゆかないときに生じるもので、大げさにいえば人が成長する、あるいは人生が深みを帯びてゆく前の「助走段階」である。モヤモヤとするから新たな知見を得ようとするのであって、だから簡単に手放してはいけないものだ。意欲が醸成されるという点でも、しばらくはモヤモヤしておいた方がいい。それを芸人コメンテーターが雲散霧消にしてしまう。

小田嶋氏は実に大切な指摘をしていると私は思う。

ただ一方で、専門家の側にも問題があることは付け加えておきたい。自戒を込めていうと、専門家は往々にしてわかりやすく伝えることに長けていない。専門用語を並び立てたり論旨が明確でない専門家の物言いを苦手とする層が、あまりにわかりやすい芸人コメンテーターの言明に飛びつくのは想像に難くない。この専門家と芸人コメンテーターの共犯関係が、今日のテレビの凋落を招くことになった一因だとも思う。

もっとも、限られた時間で歯切れのよいコメントを残さなくてはならないテレビという媒体が限界にきているという見方もできるし、だとするならばテレビが求める人物像は、専門的知見を有しながら芸人なみの話術を持つ人ということになるが、そんな人はそうそういない。テレビの未来は限りなく暗い。やはりちょっと寂しい。

体感気温が呼び覚ます記憶。

またもや寒さがぶり返してきた、ここ神戸市北区。耳の先が痛くなるほどに空気が冷たい。冬が来れば寒くなるのは当たり前で、毎年、経験しているはずなのに一向に慣れない。夏が来れば暑くなるし、冬が来れば寒くなる。春はその陽気で心まであたたくなるし、秋は暑さが和らいで一息つく。もう45回目の冬だというのに、季節ごとに暑いや暑いや、あたたかいや涼しいやと感じ、その体感を性懲りもなく言葉にしてきたわけだ。四季があるから当然とはいえ、そのときどきの気温を的確に感じているこのからだは律儀だとあらためて思う。

年齢によって感じ方は違う。たとえば小学生のころに感じていた冬の寒さはどうだったのだろう。今よりもっと寒かったのか、あるいはそれほどでもなかったか。「子供は風の子」というから、寒さよりも外で遊ぶ楽しさが勝って、今ほど気温の低さなど気にならなかったのかもしれない。あるいは夏の暑さはどうだろう。地球の温暖化が進む現在、外気温としては明らかに今の夏の方が暑いのだろうが、感じる側のからだが変化しているのだから実際にはよくわからない。暑さも寒さも、どう感じるかによってその体感温度は変わる。

当時と今との気温差は測るべくもないが、ただ体感温度に付随して蘇る記憶がある。

ラグビーのシーズンは冬である。シーズン前の木枯らし吹くころは、目標とする大会に臨む前のなんともいえない高揚感がつきまとう。夏が終わり、日暮れになると肌寒く感じるころには、今でもあのときの高揚感が湧く。19年間ものあいだ繰り返してきた日常のサイクルが、引退して10年が過ぎた今でも「あのころ」をまだ憶えている。冬が深まってくると、凍える指先や唇のカサつきで当時の緊張感が蘇る。もう試合をしなくてもいいのに、からだはまだその準備をやめない。いや、違った。からだではなく「こころ」の方だ。体感する寒さが引き金となり、勘違いしたこころがその準備をし始める。冬になればどこか意気揚々となるのは僕が昔ラグビーをしていたからで、習慣がこれほどまでに深く心を制御することに驚くばかりである。

研究室のデスクに座って仕事に精を出しながらも、このデスクワークにまだこころは慣れていない。当時のラグビー仲間にも、今だにデスクワークに慣れない人がいる。結構、いる。「昔取った杵柄」で、少々乱暴にからだを使うことに慣れてしまうと、じっとし続けるのが苦痛になるのかもしれない。じっとし続けることで、どこかからだが錆びついていくような不安にも、たまに襲われる。幸いなことに僕は太る体質ではなく、現役時代も体重の増加や維持に苦しんだ方なので、脂肪を蓄える恐れはないのだけれども、それでもからだの芯の方でなにかが損なわれているような気がしてならない。

動きたい。とにかく動きたい。一人で走ったり、アクティビティに取り組めばいいだけなのだけど、できることならば集団で、なにかゲームのようなことを通して、仲間とコミュニケーションをとりながら伸び伸びとからだを動かしたい。そんな衝動を抑えながら今日も一日、パソコンの前でずっと仕事をしていたのでした。

また明日からもがんばろう。

「正論」を手放してはいけない。

久しぶりに書いた前回のブログを牟田都子さんが読んで下さり、僕の胸の内を見事に見透かされたのでした。どうしても書けないと地団駄を踏んでいたあのころはある種の孤立感に覆われていたのだけど、思うところをこうして発信して、それを受け取ってくれたことで一気に解消するんですよね。

一人ぼっちでの思索は迷路にハマる。たとえ一人で思索にふけるときも意識の上では「他者」が必要で、研究室で一人デスクに座っているときでも頭のなかで「他者」を召喚しないと、すぐ路頭に迷う。これをずっと意識しながらやってきたものの、つい忘れていたんだなあと、牟田さんのTweetを読んで思い出した。

「書く」という行為は、読者を想定する時点で一人じゃない。中空を眺めてあれこれ思考するのと、こうして書きながらに思考することとの違いは、想定読者という「他者」がいるかいないかで、もっといえば、じぶんの中にいる「もう一人のじぶん」もそこには登場してくるから、おのずと三者対談になる。そこで紡がれる文章は確かにじぶんが書いているのだけれども、その内容には少なくとも二人の「他者」が介在しているから、重層的で、なんとなくじぶんだけのものではないような、そんな「よそよそしさ」がつきまとう。すべてをハンドルするのが憚られるというかなんというか。これが僕がいうところの「書く」ってことで、先のTweetはこの原点に気づかせてくれた点で一筋の光になったのだった。

牟田さん、ありがとうございました。

さて、今日はぜひ書きたいことがあってブログの更新を目論んでいる。
以下は僕のTwitterのタイムラインを賑わせている、読売新聞に掲載されたレッドブルの広告の一部だ。ちょっとこれは看過できない。その思いが強く、なぜそう考えるのかの理由をブログに書いておこうと思った次第である。

 

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その主張は、わからないでもない。もし誰かに頭から正論を振りかざされれば、僕だってこのように反発したくもなる。どちらかといえば僕は正論が嫌いだ。そこには取りつく島もなく、人間本来の揺らぎや心の葛藤を置き去りにするからだ。現場の労苦を顧みずに高所からかまされる正論には、僕は耳を貸さないようにしている。

ただだからといって正論をくたばらせてはいけない。正論は正論として、あるべき場所に鎮座しておいてもらわなければならない。さもなくば人は道を間違えるし、進むべき方向が見えなくなって立ち往生する。正論なき世界はただの混沌でしかない。理想へと続く道筋を指し示すのが正論であって、それがなくなれば僕たちはただの一歩も進むことはできなくなる。

理想へと続く道筋が正論ならば、正論が指し示す通りに一歩ずつ歩めば理想に辿り着くことができる。理屈ではそうなる。でも、現実はそんなシンプルにはできていない。あらゆる現場には様々な価値観を持った人たちがいて、それぞれに思惑があるからなかなか正論通りにはことが運ばない。だから知性的な人は、利害の調整や納得を得るための言葉がけをしつつ、遠回りをしながらありうべき理想へと近づこうとする。確かにそこでは感受性や衝動を抑える必要があるが、それは人が正しい選択をする上でのコストみたいなものだ。このコストをいかに抑えるかは十分に考慮されなければならないにしても、だからといってゼロにはできない。このコストがゼロの世界とは「野蛮」だからである。

つまりこの広告は私たちが「野蛮」へと向かうように扇動している。常識を捨て、感受性や衝動に身を委ねよという言明は、危険極まりない。反知性主義を助長するかのようなこの文言は、ある人にはおそらく耳あたりよく聞こえるはずで、もし彼らがお墨付きを得たと勘違いして傍若無人に振る舞い出せば、社会そのものがその根底から崩壊する。「野蛮」に堕す。

だから正論は、いつの時代にあっても必要だ。正しさの追求を諦めてはいけない。ただし、行き過ぎたそれは人間性を失うことにもなりかねないから、丁重に扱わねばならないだけだ。

今の社会を見渡せば、「正しさ」は行き過ぎるどころか足りていないように僕には思える。フェイクニュースが飛び交い、俄かには信じがたい事態が次々と出来する日々を過ごしていると、むしろ「正論」が求められているような気がしてならない。そんな世論においてこのような広告を出すことに、軽薄さが見てとれる。インパクトさえあればよしと考えたかどうかは知らないが、もしそうならあまりに短絡すぎる。コロナ禍によって常識が書き換えられつつある現況では、まずその常識をしっかり吟味しなければ。つまりこの時世にそぐわしい正しさとはなにかを、考えなければならないのではないかと僕は思う。