今日から7月に入った。沖縄から近畿地方にかけては梅雨明けとなり、関東甲信もほどなくそうなる見込みだ。職場が変わり自宅の引っ越しでバタバタと過ごしていた2025年前半が、はるか昔に感じられる。2025年後半も、どうにかこうにか機嫌よく過ごしていきたいものである。
先日も書いたけれど、あらためて感じるのは職場をはじめとする生活環境の変化がもたらす心身の変化である。3ヶ月も過ごせばそれなりに慣れるのは当然だけれど、心身の深いところで馴染むまでにはまだまだ時間がかかる。週末になれば緊張の糸が切れてしまい、放心状態になることもしばしばあって、心身に従うがままにどうにかこうにかやり過ごしているところではあるが、こればかりは時間の経過に任せるなかで徐々に落ち着いてくるのをただ待つしかない。
身を置く環境に「慣れていない状態」がストレスフルなのは確かである。ただこの状態には利点もある。日々の生活において目にしたり耳にしたりすることが発見に満ちており、これまでにない新しい感覚を誘発する、つまり新鮮に感じられるところだ。「よくわかっていない」という自覚が、その場の慣習や文化を吸収しようという意欲を否応なく掻き立てる。教職員との何気ない会話からも何かを得ようと前向きになるし、大学や自宅周辺を歩いていてもこんなところにこんなお店があったのかという発見がある。目新しさゆえの刺激に満ち満ちている事態は、ストレスフルな反面、いちいち感動できるというメリットもある。両者を天秤にかければ、まあ総じて楽しむことができているなとは思っている。
いまの、こうした心境でいられるうちに、ぜひとも書き残しておきたいことがある。心身がすっかり馴染んでしまう前に、さまざまな刺激をまだ新鮮に感じていられるうちに、いまの僕が感じている成城学園のよさを書いておきたいと思う。まだよくわかっていないからこそ、まだその表層しか理解できていないからこその新鮮な筆致で書き残すことには、それなりに意味があるように思うのだ。数年後の自分が振り返ってみて何かを発見するかもしれないという楽しみを念頭に、つらつらと書いてみたい。
🔳樹木に囲まれた自然豊かなキャンパス
成城学園のキャンパスにはとにかく樹木が多い。そこかしこに樹齢たくましい木々が生い茂っている。正門入ってすぐは、うねるようにしてほぼ真横に生える松の木がお目見えするし、グラウンドの東側を沿うように並んだ桜の木は森山直太朗が『さくら』を創る際のモデルになったという。学生食堂前の石畳の道は木漏れ日に溢れていて、どこか涼しげだし、どの教室の窓から外を眺めても緑が目に飛び込んでくる。
敷地内には池もある。そのかたちからドーナツ池とも呼ばれる成城池は、「せたがや百景」のひとつに選定されていて、創立者・澤柳政太郎が掲げた「教育四綱領」のひとつである「自然と親しむ教育」を実践した手作りの人工池である。先日は初等学校の子供たちがザリガニ釣りをしているのを見かけたし、池の脇を歩いていたまた別の日には蛇に遭遇してギョッとした。またまた別の日には子供の拳くらいあるほどの大きなスズメバチに身の危険を感じたりもした。職員に聞いたところによれば、ハクビシンも出没するという。
3ヶ月ほどをこのキャンパスで過ごしていて感じるのは、その植生である。想像していたよりも荒々しくて、それがどこか心地よいのだ。蛇に遭遇してからというもの、その場所を通るたびに心拍数が上がるし、スズメバチに出くわした場所でも自ずとそうなる。つまり意識を外に向けて、身体感覚を研ぎ澄まさざるを得ないわけで、そのちょっとした危機感が身体を活性化しているように感じるのだ。
いわば自然を間借りしているような本キャンパスは、校舎をはじめとする施設ありきの自然ではなく、どうやらもともとある樹木を縫うようにして作られたようである。この場が強いる想定外の事態が訪れるかもしれないという構えは、いわば学びのモデルそのものだ。したがってなにかを学ぼうとする者にとっては好ましい。そこに身を置くだけで学ぶ構えがとれるこのキャンパスは、成城学園にとってかけがえのない魅力のひとつだろう。たった3ヶ月で僕はすっかり気に入ってしまった。
🔳一つの敷地内に幼稚園から大学園までがある
幼稚園から大学院までが一つの敷地内に、徒歩で訪れることのできる距離にある。園児から大学生のほとんどが正門を通って各学校まで通うので、時間帯によっては年齢差のある子供たちで溢れ返る。先日はキャンパス内を娘と手を繋いで歩いていると、学生に声をかけられた。また違う日には学校帰りの中学生が小学生と話している様子をみかけたのだが、聞き耳を立ててみるとその中学生は初等学校出身者で、後輩との久しぶりの再会を楽しんでいた。
キャンパス内で各年代の子どもたちが交差する。そのなかで大学生は「かつての自分」に思いを馳せ、初等学校に通う子どもたちは目に入るお姉さんやお兄さんに「将来の自分」を重ねる。ふとしたときに自分の過去と未来を感じることのできるこの環境は、成長期の子供たちには少なからず刺激になっているように思う。わざわざ時間を作って会いに行かなくても、日々の中で自ずと出会えるわけだ。これは内部進学者でなくとも、自らの成長過程を可視化できるという点で外部から入学してきた者にも恩恵があると僕は思う。
下校途中の小学生同士がもし喧嘩していたら大学生は仲裁に入るだろうし、楽しそうにキャンパス内を歩いている大学生をみた初等学校の子供たちや中学生は、小さくない憧れを抱くに違いない。たとえ具体的な関わりがなくとも、日常の通学途中で目端にかかる光景がその子供に与える教育的な影響はあるはずだ。異年齢の子供たちが交錯するキャンパスは、教育研究者の目で見ればこの上ない学びの場であるといえる。
思いつくままにざっと書いてみた。乱筆乱文はブログなのでご容赦いただきたいが、僕自身の備忘録として、これからも思いついたときに書き残していきたいと思う。
東京生活はわりと快適です。
3月末に引っ越してから3ヶ月が経とうとしている。大阪生まれの関西育ちでここまできた私にとって、50歳になる直前に東京での生活を始めたわけである。昨年度末に自宅と研究室の引っ越しなどなどで目が回る日々を送っていたのが、もう随分以前のように感じられる。それほどまでにいまの生活に馴染んできたということだろう。職場や友人たちからの歓迎会を経たのも大きい。ここ成城での居場所が少しずつ築かれてきて、気を緩めることができるようになった。
たぶんホッとしたからだろう。2週間ほど前から体調を崩している。喉がやられて声が出しにくくなり、治りかけたと思ったらまたぶり返して、いまもまだたまに咳が出る。「病は気から」とはよく言ったもので、新しい環境に馴染もうと気が張っているときは風邪など引かず、仕事や生活の勝手がわかってきて、もうリラックスしても大丈夫だとからだが判断したときに、疲れはドドドとやってくる。まことにからだは賢いもので、頭でごちゃごちゃ考えるよりも、このからだに任せておけばなんとかなるもんだよなと、あらためて実感している次第である。ちなみにちょっとした風邪なのでご心配なきように。
思い起こせば4月初旬は慌ただしかった。私の仕事に関してはさほどそうでもなく、70箱ほどの段ボールの荷解きが大変だったくらいで、あとは親切な教職員に助けられて実にスムーズに環境の変化に対応できたように思う。
大変というか、労力を要した(ている)ことをあえてもうひとつ挙げるとすれば、それは授業の準備である。これまでの講義ノートをベースにあらためて資料を作り直しながら行なっているものだから、とにかく時間がかかる。ただこれは「時間がかかる」ということが大変なだけで、資料作りをもとに講義案を練る作業はとても楽しく、本人はそこまで大変だとは感じていない(どっちやねん)。担当科目が、前任校に比べると自らの専門性を全面に押し出せるということもあり、あれもこれも盛り込もうと画策することがエキサイティングで、これまでの研究をあらためて概観できもするから、時間はかかりながらも実に有意義である。ま、決して大変ではなく、充実しているわけだ。
それよりもなによりも気がかりだったのは、娘である。東京での新生活にうまく馴染むだろうかと心配していたのだが、それは杞憂だった。こちらに引っ越してからはなにひとつ不満も漏らさず、スーパーへの買い出しや休日のお出かけやたまの外食などもすぐに楽しむようになった。幼稚園のときの友達と不定期で文通をしているので、手紙を読むときには西宮を懐かしんでいる様子だが、それも一瞬だけ。東京は楽しいと口にするようにもなった。
その様子が変わったのは、初等学校入学式の前日だった。友達ができるかどうか、学校に馴染めるかどうかを急に心配し始めた。そこからしばらくは学校に行く前には表情が強張り、不安をやりすごすよう自らを鼓舞しながら家を出る日々が続いた。気が強いところもあって、決して弱音を吐かないのだが、その様子もまた私を心配させるには十分だった。毎朝私とふたりで通学するのだが、その道中、緊張する表情を横目で見ながら彼女の不安を少しでも和らげるべく他愛もない話をし続けた。
下駄箱まで送って、そこで別れるのだが、別れ際にはいつも両手でハイタッチをして、そのあと私のお腹あたりに顔を埋めてギュッとしてから意を決したように教室に向かう。階段を登りながら何度も何度もこちらを振り返って、その度に手を振ってニコリとする。その、どこかぎこちない「ニコリ」に後ろ髪が引かれる思いで、毎朝、研究室に向かっていた。
そうして3週間ほどが経ったころだろうか。友達ができたことで学校が楽しい場所になったみたいで、表情の強張りが解けて意気揚々と登校するようになった。送るのも正門までになり、別れ際にハイタッチはするが「ギュッ」はしなくなった。今日なんか一度も振り返らずに、たまたま一緒になった友達とおしゃべりしながら校舎に入っていった。その様子を最後まで見つめる私の方が未練がましく思えるほどに、娘はたくましくなった。親としては心よりホッとしているところである。
いまのところ我が家の新生活は順調そのものです。という友人や知人たちへの報告と備忘録を兼ねて、今日のところは書いてみました。ではまた。
50歳になる年に。
年が明けて10日が経った。家族でおせちやお雑煮を食べ、初詣に行ったあと大学ラグビーを観たり娘と凧揚げをした3が日もあっという間に過ぎ去って、またいつものように大学での仕事に従事している。本日は大寒波到来による悪天候が予想されたため全学的に授業がオンラインおよび休講となったが、山積する仕事を片付けなければならず朝から研究室に来ている。窓の向こうでチラつく雪を横目に、パソコンのキーボードをカタカタと叩いている。
私はこの5月で50歳になる。まさか自分が50歳になるとは思いもよらなかった。というか、健康でいればいつかは50歳になるのだから、これは勘違いも甚だしい単なる思い込みなのだけれども、露ほどもその実感が湧かなかったのである。
いざ50歳が間近になってつきまとっているのは、中身がこんなクソガキのまま50歳になってよいものかという後ろめたさである。20代の頃に見上げていた50代の方々は、もっと大人で、しっかりとした考えを持っておられた。それがいざ自分が50代に突入する段になって、このままではアカンやろといささか怖気づいている。こんな未熟なままで人生の後半に突入してよいものか(既に後半には差し掛かってはいるのだけれども)、半ば本気で悩んでいる。
そうはいってもいつかは50歳になるし、そこから60、70、80代へと、病気や事故で亡くならない限りはやがて到達するわけで、つまりは「老いてゆく」という子供から大人までの誰もが当たり前に経験している現象が、この年齢になって悲観的な憶測をともなって意識のど真ん中に居座るようになった。そのリアリティがこれでもかと押し寄せてきて、あたふたしているのが今である。これまでどれだけ呑気に生きてきたんやと、もう一人の冷静な自分から説教されている気がしてならない。
私事だが、この4月から職場が変わり、成城大学に移ることになった。人生初の東京での生活が始まる。住む場所も仕事場も50歳になる年を境に大きく変化する。住み慣れた阪神間を離れる寂しさは拭い難いものの、新天地での生活や研究を思えば心は躍っている。今の大学でお世話になった方々とのお別れはつらいけれど、それでもなお新しい環境に身を置けることのよろこびの方が強い。出会いがあれば別れもあるというのは、突拍子もなく人生で起こりうることで、この年齢で新たに挑戦できる機会が得られたのは僥倖でしかない。
慣れ親しんだ環境は心地よい。ルーティンが定まり、パターン化した日常は心に優しい。学科を同じくする同僚もみな、気のいい方ばかりだ。されどそのあまりの心地よさに、つい甘えが生じて最後まで自分を追い込みにくくなっていたのもまた事実だ。それが3月末で一旦リセットされて、4月からまた一から築き上げていかねばならなくなった。だが、これは一つの挑戦である。とってもやりがいのある、とっても楽しげな挑戦だ。中身がまだまだクソガキの私だからこその、「もっと努力せなあかんでえ」という神の思し召しかもしれない。
という脳書きはこれくらいにしておいて、今からオンライン会議に出席するとしよう。
可視化された時間と時間の体感。
年の瀬も押し迫り、年内の授業は終わったもののゲラのチェックや原稿を抱えていて、目が回りそうな忙しさにも関わらず、久しぶりにブログを書こうと思い至る。
時間というものは本当に不思議で、あっという間に過ぎ去るのは言うまでもないけれど、その手触りというか実感はいつも異なる。時計を眺めているときは針の動きを追うように1秒1秒を感じらことができるが、原稿を書いているときはそんな悠長ではなくて、文字を書き込むという作業を通じてその経過を無意識的に感じている。まさに執筆の最中はそもそも時間を気にしないから、「ただ文字を書き込む」という動作に没頭しているだけで事後的に〇〇時間が経過したと、その程度がわかる。目の前のやるべきことに集中すればするほど時間概念は消失するわけで、時間はそのやるべきことを通じて間接的にしか体感できない。集中度が高ければ「あっという間に過ぎる」し、ぶつぶつと集中が途切れればその都度時間の経過を感じるから、「いつまで経っても経過しない」というもどかしさを覚えることになる。
これが「時間の伸び縮み」であるが、はたして時間概念は人を幸せにしているのだろうか。
何かに集中できている状態に私たちは充実感を覚えるわけで、原稿にしても仕事にしても、脇目も振らずに100%没頭できていればいずれはゴールに辿り着く。いやいやながら取り組まなければならない仕事であってもそれなりの形になるわけで、「できた!」という達成感とともにそれに至るプロセスから充実感、つまり幸せが感じられる。集中する、没頭する状態が幸せをもたらしてくれるとすれば、できる限り時間の流れを感じない方がよいことになるが、ならばあっという間に過ぎ去るという事態の連続が幸せな生き方になるわけで、それってどうなのよと思わざるを得ない。だって、あっという間に過ぎ去るのだから時間つまり人生を味わえているのかどうかは甚だ疑わしい。時間をじっくり丹念に感じる方が幸せなような気がするのだけど、どうだろう。
厳密に考えれば、「今」というのはそう口にした瞬間に過去になる。「未来」というのは想像するしかないから常に「今」において構築されるだけである。過去から未来に時間が流れるというのは、その手触りというか主観的な感じ方から推察すると嘘のように思えてくる。「今」はすぐに過去になり、「未来」はいつも「今」この瞬間に想像するしかない。「過去」も「未来」も「今」が起点になることを思うと、時間は流れてなんていないと思えてくる。
このブログを書き始めてから20分ほどが経過した。というのを時計を見て「今」確認した。この20分間はただ文字をひとつずつ打ち込んでいたというだけで、その間、一度も時間を気にしてはいない。でも、時計を見れば確かに20分ほどが経過している。ごく当たり前なことだけど、考え始めればとても不思議で、頭がこんがらがってくる。「アキレスと亀」の寓話を挙げるまでもなく論理的な思考と身体実感の乖離に過ぎないのかもしれないと思いつつ、この辺で筆を置く。忙しいときほどにこうした駄文を認めたくなるのもまた不思議で、もしかすると時間そのものを味わおうとする身体からのシグナルなのかもしれない。
仕事に忙殺されないために。
仕事というのはこれほどまでに増え続けるものなのかと途方に暮れている。
いまから17年前の大学教員になったころは、さてなにをしようかと思案する時間が結構あった。会議も授業もなくまるっとフリーな時間があって、まだ締切が先な原稿に何を書こうかと遠目で思案したり、専門書ではなく個人的に興味や関心のある分野の本を(僕の場合はおもにノンフィクションや小説なのだが)読み耽っていたものだ。ブログで駄文をしたためたり、思考が煮詰まってとにかく文字から離れようと大学近くの神社までモレスキンのメモ帳をポケットに入れて散歩したりもしていた。春の陽気に包まれながら鳥の囀りに耳を向けつつ歩くその時間は、とても贅沢だった。当て所なくぶらぶらと歩いていると、不意にアイデアが湧いてきたりする。ゼミでのディスカッションテーマが浮かび、その参考となりそうな昔読んだ本の一節を思い出すこともあったし、これまでの人生で起きた出来事が突拍子もなく思い出されて、感情がかき乱されることもあった。単なる気晴らしのはずの散歩がのちの生産的な仕事へとつながる不思議を感じていた。より高く跳ぶために必要なタメというか助走が散歩だったんだよなと、いま慌ただしい日々を送る中であらためて実感している。
マルチタスクが僕はとてもとても苦手である。ひとつのことだけにしか集中できないし、成果も上げられないという言い訳をするつもりはないが、あれもこれもどれもそれも同時にこなさなければならない情況が、私にとってはとてもストレスフルである。せめて2つ3つの仕事なら並行して走らせられるにしても、それ以上となればもうわけがわからなくなる。
いや、わけはわかっている。仕事の手順も、完了するまでのおおよその時間だってわかるから、それなりにこなせているとは思う。だが当人としてはほとんど充実感が得られない。まさしく「こなせた」という手応えだけで、次の展開が開けるような達成感というか生きていく上で必要不可欠なやりがいは、ほとんど感じられない。それに、体裁だけ整えることへの抵抗というものが僕のなかに確固としてあって、やるからには新しい気づきや学びを得たいという欲求が拭い難くある。ひとつの仕事を終えたあとに一通りそれを振り返り、「もっとこうすべきだった」とか「ここはうまくいった」とかを整理する時間がなければ、あらたな気づきや学びを得ることは難しい。だから、ひとつの仕事を終えてまたすぐ次の仕事にマインドチェンジをする際には、振り返りを疎かにせざるを得ないやましさがついてまわる。
そういう意味で気持ちの切り替えは早くなったし、上手くなったとも思う。でもこのままで果たしていいのかという不安はやっぱり拭えず、だからこうして久しぶりにブログを書くことでなんとか振り返ろうとしている、のだと思う。
つまりのところ、僕はいま愚痴っている。日々を過ごす中でどこか片付かない気持ちを、こうしてダラダラ書くことによって整理しようと試みている。幸いなことに、これだけ忙しくても読書だけは続けられているから(研究室に閉じこもり不在を装って時間を無理から作っている)、おそらくインプットは十分にできている。ただ、情報として入力し続けているだけではやはり物足りず、それらを繋ぎ合わせてアウトプットしてはじめて学んだといえるわけで(つまりは松岡正剛のいう[編集]だ)、読んだ本をちょっとした感想を添えてSNSで紹介するくらいでは到底物足りない。
とにかく時間が欲しい。研究に費やせるまとまった時間が、つまりは垂直方向に思考を掘り下げられる、伸び伸びと四肢を広げて頭を働かすことのできるそれを喉から手が出るほどに欲している。この欲求が満たされないことからくるモヤモヤが、いまの僕を覆っている。
全部投げ出してやろうかと思うもそれができないのが正直なところで、だからこれは愚痴でしかない。でも、それでも中長期的な視点に立って自らの生き方を見つめ直し、この先の人生を愉快にするためには、ここで愚痴っている内容は自覚しておかねばならないとは思う。理由がはっきりしないモヤモヤは外に吐き出すことで客観化できるからだ。
ええ加減にしてくれよという魂の叫び、つまりこのからだからのシグナルは、そのつどキャッチして、そしてリリースしなければならない。さもなければいずれ感受性は衰えてゆく。この危機感を持ちながら、数多ある仕事をひとつひとつこなしていこうと思う。
年が明け、2024年になった。
年明け早々にひどい風邪を引いて、3日間を布団の上で過ごした。妻もまた同様で、ふたりして1日のほとんどをからだを横たえての生活だったから、背中と腰がバキバキになった。幸いなことに妻の実家に帰省中だったので娘を義母に任せることができて、昨日あたりからどうにかこうにか快方に向かってホッとしている。今日は、明日からの授業再開に向けて研究室でゆっくり仕事をしているところだ。
本日やるべき仕事に目処が立ったタイミングで、久しぶりにブログでも書こうという気になった。前回アップした記事の日付が2022年10月。1年以上も書いてなかったことに、さすがに驚く。連載原稿などフォーマルな文章は書いていたものの、思いつくままのカジュアルな文章をここまで放置したのは、たぶん初めて。ここんところずっと煮詰まり感を引きずっていた原因の一つは、やはりブログの放置にあったんだなあとあらためて。
「自分の考えを整理する」には、こうして書きながらに行わねばならぬ。そう、はるか昔に気づいたにもかかわらず、忙しさにかまけてつい等閑にしてしまっていた。スポーツを通して社会を観察することが半ば習慣化するなかで、その都度、感じ、考えたことは、プレジデントオンラインや京都新聞【現代のことば】で書き続けてきたから、それでよしとしていたのだと思う。だが、何度もここで書いたように、思いつくままカジュアルにことばを連ねるという作業は、思考の根っこに水をやるようなもの。自分がいまなにを感じ、考えているのかは、実際にことばにする作業を通じて、初めてかたちになるわけで、その意味で僕はこの1年ものあいだは「考えてこなかった」といっていい。たとえるなら、試合ばかりをしてきて、肝心の練習、しかも基礎的な練習をサボっていたといえる。そりゃ、煮詰まり感も出るよなって話である。
テクストの題材も、もっと個人的で取るに足らない些細な出来事にまで範囲を広げておかないと、社会の動向に沿ったものばかりに目を向けていては、自分を見失うのは言わずもがなだ。社会が求めるものばかりに気が向けば自ずと「自分」はすり減ってゆく。具体的にいえば、感受性がどんどん鈍麻する。他の人は知らんけど、オレはこう思うんですわと、感受したばかりのカオス的な感懐をどうにかこうにかことばにする営みは、僕にとってはやはり必要なんですな、これが。
試合だと対戦相手に応じた戦い方を選択しなければならず、そのプロセスでつい自分のプレースタイルを見失う。だから、独り練習において得意なプレーを繰り返したりしながら「このからだ」と向き合っておかないといけない。関西弁が混じったり、急に「ですます調」になったり、制約がほとんどない状態で伸びやかに書いておかないと、いつのまにか書くことが楽しくなくなる。知らず知らずのうちにそうなりつつあったのが、ここ1年ほどだったのかもしれない。
「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と詩人の茨木のり子はいうが、まさに僕はばかものだった。僕にとってはブログが自分の感受性を守るための一つの方法で、思考の痕跡を残すことに意味を見出しながら今年はもっとブログを書いていこうと思う。何度も何度もそう思い返してはここに書き殴っていながら、つい忙しさを言い訳に、いつのまにか更新が滞るのがいつものパターン。せやから、またそうなることもありうるかもしれないけれども、そんなことにはめげずにまたここで書こうという意気込みを年始早々に表明しておく。あくまでも自分のため、自分の感受性を守るために、このブログはあるのだと言い聞かせつつ、2024年はゆるりと始動することにする。
それにしても「意志」というものは、どれほども頼りにならないもんだな。
平尾誠二さんの命日に。
非常勤先の神戸女学院大学での講義を終えてすぐ、まだガラケーだった携帯電話を開くと知人から着信が残されていた。教室を出て掛け直すと、平尾誠二さんが亡くなったと告げられた。突然の訃報に理解が追いつかず、抜け殻のようになって門戸厄神駅まで歩いた。西宮北口駅で神戸方面の電車に乗り換え、現実感が乏しいままにただただ車窓を眺めていた。六甲駅を過ぎたあたりで突然込み上げてきた。泣いているのが周囲にバレないように俯いた。
あれからちょうど6年が経った今日も、神戸女学院大学で講義をした。あの日と教室は違うし交通手段も自動車にしたけれど、同じ講義を同じ時間帯に行った。講義を終えて、ふとあのときの気持ちがよみがえった。
ほとんど変わり映えのしない日常が続いたこの6年間は平尾さん不在の世界だった。ただ、その現実がいまもまだうまく飲み込めずにいる。肉体としての平尾さんは消滅したけれど僕の胸の内には確実に平尾さんはいて、その存在感は時間が経つにつれて増しているような気がする。いないけど、いる。この感じがずっとあって、その実感は着実に色濃くなっている。
死者として僕のなかに存在する。それが悲しいのかどうなのかがよくわからなくなってきた。この場合、平尾さんならどう考えるだろう。そう心のなかで問いかけることもよくある。カカカカと笑うあの顔がいつまでも脳裏から離れない。いるのかいないのか、いないのかどうなのか、それが曖昧になればなるほどその存在が際立ってくる。家族や親族でもないのにここまでの気持ちになった人は、いまだかつていない。
死というのは不思議だ。不可解だ。これもまた平尾さんが教えてくれているのだとすれば、この先もずっと「ここ」にいるのだろうと思う。