平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

年が明け、2024年になった。

年明け早々にひどい風邪を引いて、3日間を布団の上で過ごした。妻もまた同様で、ふたりして1日のほとんどをからだを横たえての生活だったから、背中と腰がバキバキになった。幸いなことに妻の実家に帰省中だったので娘を義母に任せることができて、昨日あたりからどうにかこうにか快方に向かってホッとしている。今日は、明日からの授業再開に向けて研究室でゆっくり仕事をしているところだ。

本日やるべき仕事に目処が立ったタイミングで、久しぶりにブログでも書こうという気になった。前回アップした記事の日付が2022年10月。1年以上も書いてなかったことに、さすがに驚く。連載原稿などフォーマルな文章は書いていたものの、思いつくままのカジュアルな文章をここまで放置したのは、たぶん初めて。ここんところずっと煮詰まり感を引きずっていた原因の一つは、やはりブログの放置にあったんだなあとあらためて。

「自分の考えを整理する」には、こうして書きながらに行わねばならぬ。そう、はるか昔に気づいたにもかかわらず、忙しさにかまけてつい等閑にしてしまっていた。スポーツを通して社会を観察することが半ば習慣化するなかで、その都度、感じ、考えたことは、プレジデントオンラインや京都新聞【現代のことば】で書き続けてきたから、それでよしとしていたのだと思う。だが、何度もここで書いたように、思いつくままカジュアルにことばを連ねるという作業は、思考の根っこに水をやるようなもの。自分がいまなにを感じ、考えているのかは、実際にことばにする作業を通じて、初めてかたちになるわけで、その意味で僕はこの1年ものあいだは「考えてこなかった」といっていい。たとえるなら、試合ばかりをしてきて、肝心の練習、しかも基礎的な練習をサボっていたといえる。そりゃ、煮詰まり感も出るよなって話である。

 

テクストの題材も、もっと個人的で取るに足らない些細な出来事にまで範囲を広げておかないと、社会の動向に沿ったものばかりに目を向けていては、自分を見失うのは言わずもがなだ。社会が求めるものばかりに気が向けば自ずと「自分」はすり減ってゆく。具体的にいえば、感受性がどんどん鈍麻する。他の人は知らんけど、オレはこう思うんですわと、感受したばかりのカオス的な感懐をどうにかこうにかことばにする営みは、僕にとってはやはり必要なんですな、これが。

試合だと対戦相手に応じた戦い方を選択しなければならず、そのプロセスでつい自分のプレースタイルを見失う。だから、独り練習において得意なプレーを繰り返したりしながら「このからだ」と向き合っておかないといけない。関西弁が混じったり、急に「ですます調」になったり、制約がほとんどない状態で伸びやかに書いておかないと、いつのまにか書くことが楽しくなくなる。知らず知らずのうちにそうなりつつあったのが、ここ1年ほどだったのかもしれない。

「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と詩人の茨木のり子はいうが、まさに僕はばかものだった。僕にとってはブログが自分の感受性を守るための一つの方法で、思考の痕跡を残すことに意味を見出しながら今年はもっとブログを書いていこうと思う。何度も何度もそう思い返してはここに書き殴っていながら、つい忙しさを言い訳に、いつのまにか更新が滞るのがいつものパターン。せやから、またそうなることもありうるかもしれないけれども、そんなことにはめげずにまたここで書こうという意気込みを年始早々に表明しておく。あくまでも自分のため、自分の感受性を守るために、このブログはあるのだと言い聞かせつつ、2024年はゆるりと始動することにする。

 

それにしても「意志」というものは、どれほども頼りにならないもんだな。