平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「正論」を手放してはいけない。

久しぶりに書いた前回のブログを牟田都子さんが読んで下さり、僕の胸の内を見事に見透かされたのでした。どうしても書けないと地団駄を踏んでいたあのころはある種の孤立感に覆われていたのだけど、思うところをこうして発信して、それを受け取ってくれたことで一気に解消するんですよね。

一人ぼっちでの思索は迷路にハマる。たとえ一人で思索にふけるときも意識の上では「他者」が必要で、研究室で一人デスクに座っているときでも頭のなかで「他者」を召喚しないと、すぐ路頭に迷う。これをずっと意識しながらやってきたものの、つい忘れていたんだなあと、牟田さんのTweetを読んで思い出した。

「書く」という行為は、読者を想定する時点で一人じゃない。中空を眺めてあれこれ思考するのと、こうして書きながらに思考することとの違いは、想定読者という「他者」がいるかいないかで、もっといえば、じぶんの中にいる「もう一人のじぶん」もそこには登場してくるから、おのずと三者対談になる。そこで紡がれる文章は確かにじぶんが書いているのだけれども、その内容には少なくとも二人の「他者」が介在しているから、重層的で、なんとなくじぶんだけのものではないような、そんな「よそよそしさ」がつきまとう。すべてをハンドルするのが憚られるというかなんというか。これが僕がいうところの「書く」ってことで、先のTweetはこの原点に気づかせてくれた点で一筋の光になったのだった。

牟田さん、ありがとうございました。

さて、今日はぜひ書きたいことがあってブログの更新を目論んでいる。
以下は僕のTwitterのタイムラインを賑わせている、読売新聞に掲載されたレッドブルの広告の一部だ。ちょっとこれは看過できない。その思いが強く、なぜそう考えるのかの理由をブログに書いておこうと思った次第である。

 

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その主張は、わからないでもない。もし誰かに頭から正論を振りかざされれば、僕だってこのように反発したくもなる。どちらかといえば僕は正論が嫌いだ。そこには取りつく島もなく、人間本来の揺らぎや心の葛藤を置き去りにするからだ。現場の労苦を顧みずに高所からかまされる正論には、僕は耳を貸さないようにしている。

ただだからといって正論をくたばらせてはいけない。正論は正論として、あるべき場所に鎮座しておいてもらわなければならない。さもなくば人は道を間違えるし、進むべき方向が見えなくなって立ち往生する。正論なき世界はただの混沌でしかない。理想へと続く道筋を指し示すのが正論であって、それがなくなれば僕たちはただの一歩も進むことはできなくなる。

理想へと続く道筋が正論ならば、正論が指し示す通りに一歩ずつ歩めば理想に辿り着くことができる。理屈ではそうなる。でも、現実はそんなシンプルにはできていない。あらゆる現場には様々な価値観を持った人たちがいて、それぞれに思惑があるからなかなか正論通りにはことが運ばない。だから知性的な人は、利害の調整や納得を得るための言葉がけをしつつ、遠回りをしながらありうべき理想へと近づこうとする。確かにそこでは感受性や衝動を抑える必要があるが、それは人が正しい選択をする上でのコストみたいなものだ。このコストをいかに抑えるかは十分に考慮されなければならないにしても、だからといってゼロにはできない。このコストがゼロの世界とは「野蛮」だからである。

つまりこの広告は私たちが「野蛮」へと向かうように扇動している。常識を捨て、感受性や衝動に身を委ねよという言明は、危険極まりない。反知性主義を助長するかのようなこの文言は、ある人にはおそらく耳あたりよく聞こえるはずで、もし彼らがお墨付きを得たと勘違いして傍若無人に振る舞い出せば、社会そのものがその根底から崩壊する。「野蛮」に堕す。

だから正論は、いつの時代にあっても必要だ。正しさの追求を諦めてはいけない。ただし、行き過ぎたそれは人間性を失うことにもなりかねないから、丁重に扱わねばならないだけだ。

今の社会を見渡せば、「正しさ」は行き過ぎるどころか足りていないように僕には思える。フェイクニュースが飛び交い、俄かには信じがたい事態が次々と出来する日々を過ごしていると、むしろ「正論」が求められているような気がしてならない。そんな世論においてこのような広告を出すことに、軽薄さが見てとれる。インパクトさえあればよしと考えたかどうかは知らないが、もしそうならあまりに短絡すぎる。コロナ禍によって常識が書き換えられつつある現況では、まずその常識をしっかり吟味しなければ。つまりこの時世にそぐわしい正しさとはなにかを、考えなければならないのではないかと僕は思う。