平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

沈黙、<言葉>としてのコトバ。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

コロナ禍で気鬱な気分を払拭すべく書き始めたこのブログも、いつしかすっかり放置してしまいました。前回の更新が2020年の8月なので4ヶ月ほどほったらかしだったことになります。なぜ書かなくなったのだろうと当時を振り返ってみても思い当たることがなく、不思議といつしか自然とブログから遠ざかっていたんですね。ちょうど秋学期が始まって、日常業務が増えて忙しくなったからというのもちろんあるんだろうけど、でも忙しくなればなるほどなにか書きたくなってくるのが書き手の性分だから、「時間的な忙しさ」はたぶん主因じゃないはずで、たぶん心の奥底では「書きたくない」という否定的な気持ちが横溢していたんだろうと思う。

新聞やウェブでの連載は続けていたからずっとなにも書いていなかったわけじゃないけど、思うままにつらつらと書くブログはほぼゼロ。なんでもいいから書けば気分が幾ばくか晴れることはわかっているのに書かなかった、書けなかった。そもそも書きたいという意欲が湧かず、むしろ「書きたくない」とさえ無意識的に思っていたように思う。

この背景にはなにがあるんだろうか。

自分のことなのに疑問形で問いかけるのは、やはり自分のなかには自身でも把握できない未知なる部分があるからだ。とくに「書く」という作業については不可解なことが多すぎる。一般的に「書く」という行為は、考えや思いを文字に変換すると理解されているけど、そんな単純にはいかない。頭に浮かんだ考えや思いを写し取るかのように言葉を重ねていく、つまり頭の中で論理構成してからそれを文章にするという継時的なプロセスではない。むしろ書きながらに自然と言葉が連なってゆくのが書き手としての実感だ。わずかに芽吹いたアイデアを頼りに書き進めることによって、徐々にかたちになる。だから、考えることと書くことはほぼイコールなのである。

気分が乗っているときは決して大げさではなくほぼ自動的に言葉が連なるから爽快である。書き出す前には想像にも及ばなかったアイデアが浮かぶこともある。そのひらめきを頼りに、いささか脱線に過ぎるかもしれないと思いつつも新アイデアに導かれるように書けば、そこには未知なる領野が広がっている。いつか読んだ本のフレーズや映画のワンシーンが浮かんだりする。これとあれがここでつながるのかという発見もある。だから「未知」といってもまったく知らなかったことではなくて、意識の奥底に沈殿していて忘れていたことが蘇ってくるような感じで、懐かしさにも似た感情がそこには付随する。すでに知っていたことをあらためて知り直すとでもいうのか、それが書くことのオモシロさを担保しているように思う。

ゾーンに入るとかフロー状態に入るとかというよりは、今やるべきこと、つまり書くことに、深く集中することで「忘れていた自分をふと思い出す」という程度の、息抜きにも似た放心状態なんだろうと思う。

たとえばスマフォを気にする日常生活では、意識を解放してただボーッとする時間は意識的に作らないといけない。あれだけスマフォに警戒心を抱いていた僕でも、最近では電車待ちや喫茶店で注文した料理が運ばれるわずかな間に気がつけばその画面を覗き込んでいたりする。そんな自分に気がついて、慌ててポケットに入れるも、またしばらくすれば同じようにスマフォを手にしている。ことほどさようにスマフォの誘惑は手強い。つまり僕の意識はたえずスマフォの誘惑に晒されていて、なにもせずただボーッとする時間は縮減する一方だ。

実は僕たちはこのただボーッとする時間に無意識的に考えていて、言葉になる前の無数の考えや思いが渦巻いているのだと思う。無為な時間の流れのなかであーだこーだと考えていて、それが積もり積もってやがて言葉として溢れ出す。言葉がこぼれ落ちそうだというこのシグナルを受け取って初めて僕たちはそれを表現したい、僕なら「書きたい」という意欲が湧く。マスメディアなど外部から到来する様々な情報も、このただボーッとする時間においていったん吟味され、自分というフィルターを通すことで徐々に整理されるんじゃないだろうか。

ここ半年を振り返ると、このただボーッとする時間が欠如していたように思う。なぜ欠如していたかといえば、スマフォの誘惑もそうだがやはりコロナ禍だろう。意識をどこに向けるわけでもなくただ放っておくことができない、いや、難しい。いやが応にも意識がとらわれてしまう。ありていにいえば神経症的な状態で日々を過ごさざるを得なかった。まるで真綿で締めつけられるように、じわじわと思考力が奪われていた。書くための源泉が潤わず、言葉で溢れそうになるどころか枯渇していた。

そういえば2011年に起きた東日本大震災のあと、詩人の谷川俊太郎は「沈黙」に耳を傾けることの大切さを語っていた。


「震災が原因で書けなくなったこと、書きたくなったこと、書かねばならないと思ったことはありません。<言葉を失った>という言葉が新聞、テレビなどのメディア上でしばしば見られましたが、本当に言葉を失ったのなら沈黙するかもっと寡黙になるはずなのに、目についたのむしろ過剰なまでの饒舌だったと私は感じています。」
「(…)ただ言わないこと、書かないこと、黙っていることまで<言葉>というコトバが含意しているとすれば、私の内部の沈黙は以前に比べて深まったように感じています。」


コロナ禍と震災を並列に考えることはできないにしても、未曾有の事態に遭遇した(している)という点では共通する。これまでの常識が通用しない場面で人は「沈黙」せざるを得ない。いつもなにかを捉えようとして意識が働き続ける日常では、黙るしかなくなる。でもそれは、今まで慣れ親しんだ語り口を手放し、<言葉>というコトバが深まっているのだというこの指摘は、今の僕にはとてもよくわかる。昨夏からずっと感じていた書きたくないという抵抗、つまり今は沈黙していたいという無意識的な欲求は、だから必然だったのではないかと今では思える。

年が明けてこうしてここで書きたくなったのは、沈黙を経たのちに訪れる新境地なのかもしれない。そう前向きに捉えて、また気が向いたときにここでツラツラと書いていこうと思う。