年が明けて10日が経った。家族でおせちやお雑煮を食べ、初詣に行ったあと大学ラグビーを観たり娘と凧揚げをした3が日もあっという間に過ぎ去って、またいつものように大学での仕事に従事している。本日は大寒波到来による悪天候が予想されたため全学的に授業がオンラインおよび休講となったが、山積する仕事を片付けなければならず朝から研究室に来ている。窓の向こうでチラつく雪を横目に、パソコンのキーボードをカタカタと叩いている。
私はこの5月で50歳になる。まさか自分が50歳になるとは思いもよらなかった。というか、健康でいればいつかは50歳になるのだから、これは勘違いも甚だしい単なる思い込みなのだけれども、露ほどもその実感が湧かなかったのである。
いざ50歳が間近になってつきまとっているのは、中身がこんなクソガキのまま50歳になってよいものかという後ろめたさである。20代の頃に見上げていた50代の方々は、もっと大人で、しっかりとした考えを持っておられた。それがいざ自分が50代に突入する段になって、このままではアカンやろといささか怖気づいている。こんな未熟なままで人生の後半に突入してよいものか(既に後半には差し掛かってはいるのだけれども)、半ば本気で悩んでいる。
そうはいってもいつかは50歳になるし、そこから60、70、80代へと、病気や事故で亡くならない限りはやがて到達するわけで、つまりは「老いてゆく」という子供から大人までの誰もが当たり前に経験している現象が、この年齢になって悲観的な憶測をともなって意識のど真ん中に居座るようになった。そのリアリティがこれでもかと押し寄せてきて、あたふたしているのが今である。これまでどれだけ呑気に生きてきたんやと、もう一人の冷静な自分から説教されている気がしてならない。
私事だが、この4月から職場が変わり、成城大学に移ることになった。人生初の東京での生活が始まる。住む場所も仕事場も50歳になる年を境に大きく変化する。住み慣れた阪神間を離れる寂しさは拭い難いものの、新天地での生活や研究を思えば心は躍っている。今の大学でお世話になった方々とのお別れはつらいけれど、それでもなお新しい環境に身を置けることのよろこびの方が強い。出会いがあれば別れもあるというのは、突拍子もなく人生で起こりうることで、この年齢で新たに挑戦できる機会が得られたのは僥倖でしかない。
慣れ親しんだ環境は心地よい。ルーティンが定まり、パターン化した日常は心に優しい。学科を同じくする同僚もみな、気のいい方ばかりだ。されどそのあまりの心地よさに、つい甘えが生じて最後まで自分を追い込みにくくなっていたのもまた事実だ。それが3月末で一旦リセットされて、4月からまた一から築き上げていかねばならなくなった。だが、これは一つの挑戦である。とってもやりがいのある、とっても楽しげな挑戦だ。中身がまだまだクソガキの私だからこその、「もっと努力せなあかんでえ」という神の思し召しかもしれない。
という脳書きはこれくらいにしておいて、今からオンライン会議に出席するとしよう。