平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

酒場に足が向く理由。

この三連休はよく飲んだ。正確には三連休前の金曜日から飲み続けた。具体的に何があったわけでもないが、「飲まなきゃやってられない自分」がそこにいたので飲んだ。そのせいか、今日はなんだか集中力に欠ける。講義の準備をしていても捗らないし、本を読んでもなんだかフワフワする。休み明けの初日にこんな状態では社会人として失格だなと思うも、でもまだ大学は夏休みだからいいよねとちゃっかり言い訳をつくってはいるが。ただよくよく振り返ってみると、連休中には入試の仕事やラクロスの試合があり、おそらくはそっちの方での疲れもあっていくらか気力がすり減っているから集中力に欠けているのだとは思う。お酒のせいだけではないよ、たぶんね。

なんというか、まあ今日はそんな状態である。こんなときはおとなしくできることに邁進するのがよろしい。今日できることってなんだろ?心が落ち着く本を読むか身体を動かすか風呂に行くことかな。事務的な仕事をするっていうのもそうだが。とか言いつつも講義の準備は予定通り進んだから、とにかく力まないようにしながらゆったりと本を読むことにしよう。でもやっぱり走るか。ってどっちやねん!このブログを書き終えてから決めることにする。

お酒を飲みながらいろいろな人と話をしていると、とても落ち着くのがここんところのボクである。すぐさま有用な話をしているわけではなくてむしろ他愛もない話をしているだけなのに、身が収まるような気持ちになる。現役を引退してからというものお酒は年々弱くなっていて生ビール2、3杯でほろ酔いになるけれど、それでもゆっくり杯を傾ければ長いこと酒場でグダグダできる。グダグダと話をすることができる。そのグダグダの中で、どうやらここ最近のボクは何かを見つけようとしている。ということにふと思い当った。

いったいボクは何を見つけようとしているのか。それはたぶん「じぶん」なんだと思う。繰り返し繰り返しこのブログでは書き綴ってきたからまたかよと思われる読者がおられるかもしれないけれど、そのへんはご勘弁いただくとして、つまりボクは現役を引退してからというもの社会の中でのじぶんの立ち位置をずっと模索し続けてきた。「ラグビー選手」という役割を終えた今は「大学教員」としてお仕事をさせていただいている。昨年まではこの役割に縛られていた部分が大きくて、「あくまでも“大学教員らしく”振る舞わねばならない」と見知らぬ世界であたふたしていた。とにもかくにも大学教員としてのデフォルトを追っかけていた。その過程でおそらくボクは「じぶん」を見失ってしまっていたのだと思う。

そこには確実に焦りもあった。社会に何らかのかたちで寄与しているという実感は、生きていく上でとても大切だ。それはつまり「はたらく」ってことに人類学的な意味を見出していることを意味する。自ら強く希望したわけではなくただ偶然にボクはラグビー選手として社会の一員になり、大学を卒業してからはずっとラグビーをすることが「はたらく」ということだった。報酬を得るのは選手時代の晩年になってからだから、この「はたらく」には稼ぐという意味合いは薄い。もちろん自らが好きで従事してきたわけだからそれだけで充実感はあったものの、でもやはり一番の報酬は家族や友人やファンの方々からの反応だった。そこにやりがいを感じたからこそボクは身体が悲鳴を上げるまでやり続けたのだと今では思う。

この充実感は何ものにも代えがたい。ということを引退してから強く深く感じることになった。握手やサインを求めてくるファンの方々の存在、ダメだしをしてくれる昔からの悪友やボクを通じてラグビーに興味を抱いてくれた友人、勝利を喜びながらも身体の心配を欠かせない家族や恋人。こうした人たちの表情や言葉がいつもボクを奮い立たせてくれたのはいうまでもない。元来が怖がりのボクを勇気づけてくれるには充分過ぎた。だからこの人たちの前ではいつも強くあらねばならないと、どこか思っていた節がある。そしてその思いが、何よりの生きがいとなって自らの魂にエネルギーを供給していた。逆に言えばただその思いを拠り所とするだけにとどまり、あまり深く人生を考えることなく生きてきたと言えるかもしれない。

引退してからはこの思いがスコンと抜け落ちた。周りからの視線が減った。注目されなくなった。この現実を受け入れることが予想をはるかに超えるほど、しんどかった。大袈裟でも何でもなく、この社会にボクという人間は必要ないのかもしれないと感じた時期もあった。ただ幸いなことに修士論文というやるべきことが目の前にあり、その後はこうして大学の教員として居場所を与えられた。さらにはボクのことを面白がってくれる方もちらほらいて、その方たちからは大きな愛情を注いでいただいた。実際に仕事やそのチャンスをいただいたこともある。そのことを思い返せば、なんら悩むこともなかったのかもしれないなと今となっては思うのだけれど、当時はそんなことすら客観視できないほどに視野が狭くなっていて、だから社会の一員としてなにかできることはないか、自分が認められるためには何かをしなければいけないと、とにもかくにも焦っていたのだった。

こうして自分を顧みて、「ああそうか、スポーツ選手のセカンドキャリアをボクは地でいってるのだな」と、当たり前に当たり前なことが実感できたときに途端に肩の荷が下りたような気持ちになった。ラグビー選手だった過去はひとまず置いといて、とにかく社会の一員として何とかしないといけないと力んでいたあの頃のボクは、冷静さを失っていたのだろうと思う。まるでシャドーロールをつけた逃げ馬のようにドタバタとゴールを目指して走っていたのだろう。どのくらいのクラスで何メートルのレースかもわからないままにとにかく前に進むことしか考えていなかった。なんとも未熟だったのだ。

つまりボクは「じぶん」という存在を、ずっと自分自身だけで塗り固めようとしていたのだ。そりゃしんどいに決まっている。だってそんなことできやしないんだから。できもしないことをしようとして懸命になることほど、しんどいことはない。できないことはできない。それはつまり正確に表現すると「できているかのように見せかける」ということである。

そしてもっと悲しいのは、見せかけることができていると信じてやまない頑なさだ。おそらく周りの人はじぶんでじぶんを塗り固めようとするその姿を見抜いているはずだ。そんなことなどつゆ知らずせっせせっせと塗り固めるじぶんを手放せないでいる頑なさは、ちょっとどころかかなり悲しい。

幾度かツイッターでつぶやいた「瞬発系から持久系に」というフレーズにはこういう思いがこもっている。自分がやろうとしていること、もしくはやっていることに対して時間をおかずに反応を欲するのは、おそらくこれまでのラグビー経験で培われたもの。レギュラーになるために、試合に勝利するために、スポーツはとにかく短期間で目に見えるかたちにしてその成果を出さなければならない。立ち止まってじっくりゆっくり考えるよりもとにかくパフォーマンスを優先させる必要がある。こうした環境に長らく身を置いたことで、ボクの中に「瞬発的思考方法」が醸成されたのだと思う。ただ性格が頑固なところもあるから「そんなこといったって考えてしまうもんは考えてしまうねん」と、“じっくり思考”を完全には手放すことはしなかった。だから言うなればボクというちょっと変わり者がラグビーというスポーツ経験を通して身につけたというのがより正確な表現だろう。瞬発系や持久系など思考の仕方そのものを考えるなんてこと、ほとんどのスポーツマンはしなさそうだし。

今現在できることを最大限に引き延ばすことを「瞬発系思考」だとすれば、あらゆる可能性を吟味した上でより時間の射程を広げるのは「持久系思考」である。これはどちらかがよいというわけではなく、時と場合によって両方ともに必要な思考方法だろう。両者のバランスを取ることによってより濃密な思考が生まれ、人生がふくよかになるのは間違いない。今のボクはやや「瞬発系」に偏りつつある。だから焦ることなくちょっとゆっくりと考えていこうやないかと、そう思っている。「できているかのように見せかける」ことから離れ、また一から自らを築いていく余裕を持ちたいという願望がある。

つまりボクは、やや歪んだかたちでいる自分自身を少しでも解きほぐすそうと、もともとあった「じぶん」というものをみつけたくて酒場に足が向いている。やたらと飲みに行きたい、それはつまり顔見知りの人たちと顔を合わせて話をしたいということなのだが、ここんところ感じているこの衝動は、自分自身をこれ以上は歪めないようにしようという決意の表れでもあるのかもしれない。飲んで話して、話して飲んで、そうこうしているうちに、すっかりと自分自身が解きほぐされる。そのときに一つの真理の存在に気がつくのではないだろうかという気がしている。それは、そもそも「じぶん」などというものは存在しないということ。この真理に辿りつくためにはありもしない「じぶん」を探す時期が必要であり、それが今なのかなと、そう思う。

いつまでも「じぶん」にしがみついているとロクなことはない。と、諸先輩方は言ったり書いたりしている。たぶんボクはこの意味を半分程度にしか理解していないのだろう。それはつまりまだ腑に落ちていないということだ。腑に落ちるその日まで、とにかく今は酒場に行こうと思う。自らを曝け出すことの怖さを酒が緩和してくれるだろうと期待して。