平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

何を外に出し、何を出さないか、それが問題だ。

目覚めるや否や茂木健一郎氏の連続ツイートに目を通すのがここんところの日課となっている。鋭い洞察のもとに紡がれた言葉は目覚めてすぐのボーっとする頭にはよく効く。「二度寝したいなー」なんて呑気なことを考えている場合ではないぞと思わせてくれるには十分である。

と言いつつ毎回毎回そんな風かと言えばそうでもなくて(どっちやねん!)、「ふーん、なるほどねー」と読んだ瞬間はそれほど心を動かされない日もある。でもそんなときほど昼メシ時などに思い出されて後からジワジワ得心に至ることが多い。もちろん「えっ、それは違うんとちゃうかな」とほとんど納得できない時もある。

とにもかくにもここんところのボクの一日は氏の熱いツイートを読んでから始まる。

それで今日のツイートはどうだったかというと、読んだ瞬間に激しく得心して感動すら覚える内容であった。と同時に、この時間になってまたふと思い出して「うん、うん、まさしくそうだよな」と反芻して再び昂揚するほどで、即効性と持続性を併せ持つ連続ツイートなのだった。

というわけなので今日はこのことについて少しツラツラと書いてみたいと思う。

茂木氏は仏教の根本思想である「無記」についてつぶやいていた。「霊魂があるか、死後どうなるのか、どうして我々はここにいるのかという問いに対しては、「無記」を貫く。これが、仏教の根本思想である」のだと言う。

「無記」とは、人生の真理にかかわるような大切なことはむやみやたらに語らず胸の中に収めておけばよいという考え方である。いたずらに真理を語ることはかえって健全なる生き方をする上で妨げになると、仏教は教えているということだ。

これを読んだときには「なるほどな」と思った。

仏教だけでなく宗教というものは、死後の世界や霊魂や自らの存在意義などについて徹底的に考え抜く。科学的に説明できないものを説明するために宗教はある。というよりも歴史的にみれば宗教的な知にとって代わって世界を席巻したのが科学的な知なのであるから、科学でもってしても決して到達できない深遠なる知こそが宗教で扱うべきものとなる。それはつまり、先ほども述べたように死後の世界や霊魂や自らの存在意義などである。これらの深遠なる知というものは生き方をふくよかにし、死への恐怖や将来への不安をいくらかでも和らげるためにある。だから悩める者は救いを求めて宗教の門を叩くのである。

しかしだ。たとえ難行や苦行などの修行を通じて悟りを開き、不安や恐怖を和らげてくれる真理なるものを手に入れたとしても、それをむやみやたらに語ってはならないと仏教は教えているのだという。なんだよ、せっかく到達したんだから教えてくれてもいいやんかと、一見するところなんだかケチくさい話に聞こえるかもしれないが、ボクにはこの教えこそが真理に思えてならない。

この教えが意味するものは、おそらくこういうことだろう。

真理なるものは他人からツラツラと説明を受けて理解に至るものではない。自らの身体を通じてあくまでも腑に落ちるようにして到達することのできる境地である。だからたとえ自分がその境地に達したとしても、その境地についていくら言葉を並べて表現しようと試みたところで不可能であるし、むしろその言葉がかえって聴く者の修行の邪魔をすることになる。ゆえに多くを語らず、真理への到達を目指して努力する者が今まさに感じている苦しみや悩みを取り除くことを、まずは考える。苦しみや悩みが軽くなればまた次の一歩を自らの意志で踏み出すことができるようになるからである。

だからといって頑なに何も語らないというわけではない。それは時と場合による。茂木氏のツイートにもあるように、極楽について語ることがその人の苦しみや悩みを取り除くことができる場合は躊躇なく語ってもよい。自らの足で進もうとする姿を黙って見守ることこそが大切だと説きながらも、道中で動けなくなった人には寄り添って話を聞いたり傷の手当てをしたりすることが、真理に到達した者に求められる振る舞いなのである。

そして氏は次のような言葉で締め括っている。

(ここから引用)
フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。(…)大切な問い、思いを胸に秘めたまま、黙って日々を生きること。「無記」の思想は、私たちの生にとってのかけがえのない叡智となり得る。
(引用ここまで)

“誠実でいることとは心のうちをあますところなく表現することだ”
茂木氏の言葉を読んでボクはこんな勘違いをしていんだなと気付くことができた。なにを外に出してなにを外に出さないか、それはつまり秘密を抱え込むことの心的負荷を受け入れるということでもある。その心的負荷から逃れようとして「ボクはいつも正直なのだ」と振る舞うことはまさに子供がすることであり、周囲をヤキモキさせることにもつながる。だからこの心的負荷は受け入れないといけない。というよりも、この心的負荷を受け入れることで初めて生きるってことが輝き出すのだと思う。

「無記」の思想を実践する人たちで構成された社会を想像してみれば、なんとも清々しい気持ちになる。もちろんそんなことは不可能に違いないけれど、せめて一定数の人たちがこうした思想を体現しなければ社会というものは成り立たない。「雪かき仕事」をする人間がいなければ社会は維持できないのである。

「無記」の思想か…。深い。