平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

平尾誠二さんの命日に。

非常勤先の神戸女学院大学での講義を終えてすぐ、まだガラケーだった携帯電話を開くと知人から着信が残されていた。教室を出て掛け直すと、平尾誠二さんが亡くなったと告げられた。突然の訃報に理解が追いつかず、抜け殻のようになって門戸厄神駅まで歩いた。西宮北口駅で神戸方面の電車に乗り換え、現実感が乏しいままにただただ車窓を眺めていた。六甲駅を過ぎたあたりで突然込み上げてきた。泣いているのが周囲にバレないように俯いた。

 

あれからちょうど6年が経った今日も、神戸女学院大学で講義をした。あの日と教室は違うし交通手段も自動車にしたけれど、同じ講義を同じ時間帯に行った。講義を終えて、ふとあのときの気持ちがよみがえった。

ほとんど変わり映えのしない日常が続いたこの6年間は平尾さん不在の世界だった。ただ、その現実がいまもまだうまく飲み込めずにいる。肉体としての平尾さんは消滅したけれど僕の胸の内には確実に平尾さんはいて、その存在感は時間が経つにつれて増しているような気がする。いないけど、いる。この感じがずっとあって、その実感は着実に色濃くなっている。

死者として僕のなかに存在する。それが悲しいのかどうなのかがよくわからなくなってきた。この場合、平尾さんならどう考えるだろう。そう心のなかで問いかけることもよくある。カカカカと笑うあの顔がいつまでも脳裏から離れない。いるのかいないのか、いないのかどうなのか、それが曖昧になればなるほどその存在が際立ってくる。家族や親族でもないのにここまでの気持ちになった人は、いまだかつていない。

死というのは不思議だ。不可解だ。これもまた平尾さんが教えてくれているのだとすれば、この先もずっと「ここ」にいるのだろうと思う。