平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

スポーツに暴力は必要ない。

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この事件を受けて以下の内容をTwitterでつぶやいた。

なんのために部活動があり、スポーツをするのか。この問いと日々じっくり向き合っている指導者は暴力を振るわない。裏を返せば、暴力を振るう人はこの問いを考える習慣を持っていない。彼らは目先の事態に短絡的に対処しているだけで思考停止に陥っている。体罰と暴力の違いすらわかっていない。

何度注意をしてもいきなり車道に飛び出す幼児や、衝動的に刃物を振り回す児童生徒に、その危険性を教えるべくやむにやまれず手が出る体罰には、まだ一考の余地がある。だが暴力にはない。問答無用に悪である。忘れ物程度で顎が外れるほど強く殴るのは、控えめに言っても『異常』である。

2012年に桜の宮高校バスケットボール部で顧問からの暴力を苦に生徒が自死する事件が起きた。あれから10年が経ってもまだ運動部活動での暴力事件は後を絶たない。僕が勤める大学にも、高校時代に指導者から暴力を振るわれた経験のある学生がいまだにいる。学生から直接聞いたり、ニュースで事件を知るたびに激しい憤りが湧く。軽々しく暴力を振るうような指導者はすべからく子供の前からいなくなって欲しいと願う。

それと同時に、こうした暴力指導者が後を絶たないのは構造的な問題があるのだとも思っている。「スポーツには厳しさが必要なんだからある程度は仕方ないんじゃない」という世間の声がそれだ。「そもそもスポーツには暴力がつきものでしょう」なんていう時代遅れの考えすら、まだ社会には根強い。「コーチが児童や生徒を叩くのは指導の一環であり、愛情があれば許されるのでは」。そんな生易しい理解もまだなくなってはいない。

スポーツに暴力は必要ない。これは僕のスポーツ経験を賭けて断言できる。

暴力を排除するためには不断の努力が必要だ。わずかな心の隙間に忍び込んでくる暴力への渇望をたえず跳ね除けなければならない。おそらくこれはすべてのハラスメントにも当てははまるだろう。権力の名の下に他者を服従させたいという欲望は、生き物である人間ならば誰しもが持っていると思うからだ。

バケモノであるこの暴力性を飼いならす。それが「おとな」だ。年齢を重ねただけでどれほども成熟を果たしていない者は、たとえ老人であっても「こども」でしかない。

40代のいい大人が顎が外れるほどの強さで10代の高校生をどつくなど、どんな言い訳も許されない。これは「体罰」ではなく「暴力」であって、だからこそ傷害事件である。容疑者とその関係者のあいだで「(発覚したのは)運が悪かっただけ」などと傷を舐め合うことは、断じて許してはならない。