平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『考える人』に登場してます。

気がつけば2010年も半分が過ぎ去り7月に突入した。毎年この時期になると「1年の半分が過ぎた」ことを実感して時の流れの速さを痛感するのだが、また今年も同じように感じてこのフレーズを使っている。こうした繰り返しはなんだか心地よくて、また今年も同じ言葉を使っているとわかっていても敢えて使いたくなるフレーズである。

2010年は折り返し地点を超えて終着に向かい始めた。

さて。過日に『考える人ー2010年夏号』(新潮社)の“日本の身体“というコーナーに内田先生との対談が掲載されると書いて、雑誌発売日が近づいたら改めて告知しますと宣言していたのだけどすっかり忘れていて、一昨日の7月3日が発売日でした。楽しみにお待ちいただいた皆様ごめんなさい。もう発売されております。ツイッターでは告知したから「まあええか」という気持ちも無きにしも非ずでした。なかなかエエ男に写っておりますのでぜひ手にとってみて下さいませ(笑)。

かく言うボクは当然のごとく発売日に書店に走りました。購入して読み返しました。自分でも言うのもなんだけれどとてもオモシロい対談です(自画自賛)。ボクの話は経験の中から出てきたまだまだ未熟な気付きでしかなく、まだ自分の現役時代に酔っているところが散見されるかもしれないけれど、合気道を何十年もしてこられた内田先生の身体に関する考え方からは学ぶべきところがたくさんあります。

現役を引退するかしないかの時からわずか数年の研究からでも、スポーツ教育がどれだけ未熟なまま、というよりもほとんど手つかずのままに現在に至っているのかについては把握することができました。「罵詈雑言や体罰などの根性論的指導」とそれを裏返しただけの「スポーツ科学なるものに根ざした単純指導」の横行は、火を見るよりも明らか。なのになぜこうしたスポーツのされ方が続くのか。

前者の「罵詈雑言や体罰などの根性論的指導」は、農民を兵士に仕立て上げる際に採用された旧帝国陸軍の方式の名残であり、使い捨ての兵士を育てる軍隊式ではなく「将」を育てるためにあった武道の考え方を取り入れることで快方に向かうだろうと考えられます。しかし後者の、今のスポーツ界を席巻しつつある「スポーツ科学なるものに根ざした単純指導」をなんとかするのはいささか骨が折れるであろうし、まだまだ研究が足りない今のボクにははっきりとしたイメージが抱けないでいたのがこれまででした。

しかし、この対談を終えた今となっては、「スポーツ科学なるものに根ざした単純指導」ではない理想のスポーツ像のイメージを描くことができています。おそらくそれはこの対談でボクが得たもっとも大きな果実であると思っていて、そのスポーツの理想像がよくわかる内田先生の言葉を引用しておきたいと思います。

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内田 人間には繰り返し参照する「あの時のあの感覚」が必要なんです。自分の身体が一番素晴らしい状態だった理想的瞬間という戻るべき原点の感覚さえあれば、なにがあっても全部リセットして、身体をその原点に合わせて補正することができる。スポーツ教育も武道も、それを作る手助けをしてあげられるかどうか。
<『考える人』(新潮社)173頁>


自分の身体が一番素晴らしい状態だった理想的瞬間である「あの時のあの感覚」、この経験が豊富にできるものとしてのスポーツがまさしく理想で、因果論的な解釈に踏みとどまる「スポーツ科学なるものに根ざした単純指導」は、この「あの時のあの感覚」を台無しにしてしまう可能性があります。プレーヤーにとってのかけがえのない経験を台無しにするのではなく、こうした経験を手助けできる指導者像を、これからのスポーツ教育は真剣に考えていかなければならないと思います。

「あの時のあの感覚」を、子どもたちをはじめとするプレーヤーが感じられるスポーツのあり方について、もっともっと考えていかねば。向かうべきところが明るく照らされていれば、やる気や意欲が枯渇する心配はありません。

これからも指導の際には「愛情のあるパスを放りなさい」を言い続けたいと思います。