平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「純粋経験」を考える、その3。

複数の本を同時に読み進める方がより深く理解できる。ということに今更ながら気がついた。というよりもここにきてようやく思い出したというところか。意識を拡散させておく方が知識や情報の吸収率は高くなる。これは「忙しい人にこそ仕事を頼め」という言葉にも通ずるよな。じっくり考える時間があり過ぎると見事に迷路にはまりこんでしまうということだ。

というわけで今は『善の研究』も読みつつ、『噛みきれない想い』も『街場のメディア論』も『天地明察』も読んでいる。過日のブログで書きますと宣言した「空気を切り裂くものとしての水=通常性」についての理解を深めるために、『空気の研究』も読まないといけないし、さらには秋学期の講義準備として『スポーツの風土』と『近代スポーツの実像』も読み返したい。これだけあれば理解するに越したことはないだろう。どれから手をつけていくのかは秋学期開始日から逆算して決めるか、それともその日の気分次第で決めるかになるが、まあ流れに身を任せて読むだろうな、きっと。

そういえば雑誌「Number」では“アスリートの本棚~読書が彼らを強くする”という特集が組まれていて、サッカー日本代表長谷部誠選手やカーリング本橋麻里選手、サッカー元日本代表監督の岡田武史氏などがそれぞれに好きな本を紹介している。長谷部選手は白洲次郎が好きで、ドイツで過ごす自らの境遇と重ね合わせて読んでいるという。驚いたのが陸上400mハードルの為末大選手。なんと『善の研究』を手にする写真が掲載されていて「おお、まさに今ボクも読んでますけど!」となぜだかうれしくなった。しかも奇遇なことに誕生日が同じで、5月3日生まれ。年齢はボクの方が3つ上なんですけれどなんだか不思議な感じがしております。

ボクの場合はすっかり現役を退いてからこうして読み進めているわけで、まさしく過去を振り返りながら「うん、うん」とうなずくことしきりなんだけれど、為末選手の場合は今まさに現役選手なわけで、あの内容をいったいどのように解釈して、そしてどのように競技に取り入れているのかにとても興味がある。あれだけの内容を言葉でインプットすれば、すなわち言葉で論理的に理解してしまえば、実際に身体を動かす際に引きずられたりはしないのだろうかと、ちょっと訊いてみたい。陸上競技ラグビーと違ってとことんまで自身の身体だけにフォーカスすることができるから、あまりその辺りのことはもしかすると気にならないのかもしれない。どうなんだろう。

こうしてトップアスリートが読書をしている事実を広く社会が知ることには大きな意味があると思われる。「純粋経験」なる概念に触れれば触れるほどに、「考えること(思惟)」と「おこなうこと(感覚・知覚)」はともに人間として必要な経験であることに変わりはないのだという確信がボクの中で大きくなりつつある。西田幾多郎が「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」を出発点として思考を展開しているように、経験の集積こそが人間であるからには「考えること(思惟)」も「おこなうこと(感覚・知覚)」双方ともに経験であることに変わりはない。人に自慢できるほどの経験でなくともただ生きているだけで身についていくようなささやかな経験が積み重なって、私たちひとりひとりの人間性はかたちづくられている。その経験の仕方に違いがあるだけなのだ。

一般的にスポーツ選手は主に「おこなうこと(感覚・知覚)」から自らの人間性をかたちづくっており、「考えること(思惟)」をどうしても疎かにしがちな傾向にある。考えるためには言葉が必要である。その言葉は感覚とは相容れない。感覚は、身体を動かすには欠かすことのできない大切なもの。だから「ごちゃごちゃ考えずに(言わずに)とにかくやってみろ!」という指導がスポーツ現場では為されるのであり、実際そう指導された方がうまく動けたりする。本来ならば考えながら行い続けることが奨励されるべきなのに、どうしても身体的実践に偏った指導が横行するのにはこうした理由がある。

でもこれには限界があって、より高度な身体運用を目指すにあたってはやはり自らの頭で考え、それを踏まえて身体を動かすというサイクルを実践しなければならない。ただ機械のように反復練習をするだけでは到達し得ない境地というものがある。機械的な反復からは機械的な身体運用しか身につかない。

その点でトップアスリートはやはり考えている。「考えること(思惟)」と「おこなうこと(感覚・知覚)」をバランスよく経験したからこそ、ハイパフォーマンスを発揮できるようになったのだ。だから真のトップアスリートが読書に励むのは当然のこと。「考えること(思惟)」も「おこなうこと(感覚・知覚)」もともに経験なのだから。

てなことを元アスリートは考えているわけだが、その実ボクは現役時はそれほど本を読んでいたわけではなかった。おそらく無意識のレベルで言葉というものを忌避していたのだろうと今では推測している。動けなくなるのがわかっていたから。だからこそ壁にぶち当たり、ラグビー選手として自らが思い描いていたイメージに届かなかったのだろう。さらには身体を損なうことにもなったから、やはり「考えること(思惟)」はとても大切なことだと思う。たださっきも言ったように言葉と感覚は相容れないから、パフォーマンスを発揮するためにはどこかで言葉をふっ切る必要がある。論理的に積み上げた思考をひとまず括弧に入れなければならない。

この作業にアスリートとしての知性が表れるのではないかと思う。このあたりのことはまだうまく言語化できないけれど、今の段階で想像するに、言葉を打ち消すような言葉を手に入れるまで考え続けるというか、曖昧さを際立たせる言葉を手に入れるというか、それこそ知っているのに知らないフリをするという芸当を身につけるというか、たぶんそんなことなのかなと思う。

いずれにしても真のトップアスリートは読書を好み、思考することを厭わない。そうボクは思っているし、そうあって欲しいとも思っている。遅ればせながらボクがこうしてささやかに考え続けようと志したのは、「おこなうこと(感覚・知覚)」に偏り続けた過去とのバランスをとりたいと無意識的に願ったからなのかもしれない。偏りがあったからこそ、そこに楽しさを見つけられたのかもしれない。