平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

割といろいろやってますやんか、ボク。

今日も朝から研究室に来ている。ラクロス練習には顔を出さず、2010年度上期の研究活動を書き出し、春学期に行った講義内容の見直しと添付した資料の整理をしていた。これまでの研究活動は、2度の学会発表、学内紀要に投稿した論文が1本、『考える人』に内田先生との対談掲載、甲南大学体育会フレッシュマンキャンプでの講演、それに毎日新聞での隔週連載。秋にはある学会での発表内容をさらに煮詰めて論文にする予定もあり、こうして改めて書き出してみるとボクって割と研究活動に勤しんでるやん!と思えてくる。大学院の時の指導教員には年に2本の論文は書いておきなさいと言われているが、これもクリアしているし。ま、研究活動にこれだけやればOKという基準がないことくらいは理解しているつもりだが、それでも今の立場ではある程度は形にしておくことが求められるわけで、その意味でちょっとホッとしている。

と言いつつ、ホッとしちゃっていいのかなという不安も無きにしもあらず。だいたいどれほどの活動を行っておけばあとは自分の興味に基づいて好き放題に研究できるのか。まあ、そんなことは誰も知らないよね。甘いこと言ってちゃだめだなあ。その線をきちんと見極められるようになることも成熟だよな。

ただ今よりもっとハイペースで論文を書いた方がいいよと指摘されたところでたぶん書けやしないだろうと思っている。形として発表しなくてはならないのはわかっているけれど、今の自分が考えているテーマが深まらない以上はどうしたって書きようがない。それなりに文献も読みこまないといけないし、現場に足を運んでいろんな人の話を耳に入れないと、思考を深めるきっかけがつかめない。少なくともボクはそうだ。たぶんゆっくりとものを考える性格だからだろう。すべてとは言わなくても部分的に腑に落ちるものがなければ次に進むことができない。だって思ってもみないことをもっともらしく書くことはとてもつまらないことだからだ。

でもね、意識のどこかに焦りが生ずると、つまらないとわかっていながらもついもっともらしいことを書いてしまおうとする自分が出現する。あの本であの人が主張していた内容をもとに論理を組み立てようとしてしまうのだ。まずは自分の考えがあり、その考えに基づいて引用するのではなく、他人の主張に乗っかるように自説の展開を企てる。定型的な文章を並べるだけだから知的負荷も軽くなるし、何よりじっくりと考えるべき時間が節約できる。見た目に論文らしくすればそれで研究業績にカウントできるから、何ともインスタントだ。

ただこれをしちゃうと自分が著しく損なわれるような気がして、というより実際に大きな傷を負うことになるはずだ。絞り出すように紡いだ言葉は、あとあと読み返せばそこにはある種のカタルシスが訪れるけれど、そうじゃない言葉は著しく自分が損なわれる。

とは言えすべて自分の言葉で思考したことを書くのは不可能なわけだから、それはやはり誰かの言葉をつなぎ合わせることになる。それは単に「引用」ということではなくて、一度すっかり自らの心と身体を通過させた言葉を紡いでいくという作業だ。つまり「この人は何を言おうとしてこの言葉を発したのか」という問いをじっくりと考えるということであり、これにボクはたぶん時間がかかるのだと思う。すぐに理解するまでには至らないのです、ホントに。

ボクに与えられたアドバンテージはラグビー選手としての経験だから、スポーツ教育に関する論文や文献を読む時にたえず参照できるものが身体の中に横たわって眠っている(と信じている)。このラグビー経験だけを純粋に取り出すことは不可能だけれど、読んだり話したりしているときにポコッと思い出されて「ああそうだったよな」とその存在に気付く。だからいうなればずっと参照し続けることでボクのスポーツ経験はその存在を露わにしていく。それにはおそらくそれなりの時間がかかる。というより時間という要因がなければポコッと思い出されることはないのだと思う。たぶんだけど。

というような言い訳を言葉にできたことで少しばかり肩の荷が下りたようだ。研究は自分のペースで、そのときそのときの興味や関心にしたがってやっていくことにする。もろもろの淘汰圧には決して屈しないぞ、という決意を新たにする意味でこうして鼓舞してみたわけだが、それにしてもボクは揺らぎまくりだな。まあええか。ふらつきながらバランスをとっているのだと思い込むことにするか。