平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「違和感」を信じてみようと思ったとき、身体を動かしたくなった。

長らくのお盆休みを終えて今日は大学の研究室に来ている。大学としては夏季休暇中だから、学内には通信教育部のスクーリング生と講師の先生方がわずかにおられるだけで、辺りはひっそりとしている。あ、体育館で耐震工事をしているので多少の物音はするけれど。

午前中はラクロスの練習に顔を出し、そのあと、練習を終えた学生たちがミーティングに移動した後の誰もいないグラウンドで、少し走った。40mほどの距離を20本ほど。いかに力むことなく走り終えた後も必要以上に息が切れないように、まるで現役時代の時とは正反対のことを意識しながら、走った。暑さで肌がジリジリしながらも、それでもとても心地よい感じが身体中を駆け巡る。電車に乗っている時や店から店への移動中なんかのときには憎らしいほどの発汗も、身体を目いっぱいに動かし、その後すぐにシャワーを浴びれる環境では十分すぎるほどに気持ちがよい。

走るだけでは物足りず、久しぶりにボールでも蹴ってみるかと、倉庫にあったボールに空気を入れてひたすら蹴った。頭に描くイメージよりもはるか手前で失速する。割とまともにボールを捉えたキックも現役のころに比べれば物足りない。筋力が落ち、定期的に練習しているわけでもないからこんなことは当然の帰結なのだけれど、いざそれを目の当たりに実感すればそれなりに複雑な気持ちが湧いてくる。「もっとできると思っていたけどな」というあられもない期待感が無残に砕け散ると同時に、「いやせめてここからネットに当たるくらいの距離が出るキックを取り戻そう」とこれから時間を見つけて練習しようという意欲が湧いてきた。

そういえば今日はアップシューズだったな。あの頃はいつもスパイクを履いて蹴っていたから距離が伸びなくて当然だよな。とやっぱり負けず嫌いな自分が顔を覗かせてなぜだかホッとする。

さて、そうして久しぶりにラグビー的な運動をしてから研究室に戻って携帯を見ると、他学科でお世話になりっぱなしの先生からの着信がある。かけ直して近況報告を交換したあと昼ごはんに行きましょうということになり、研究のお手伝いで来ていた大学院生と3人で近場のうどん屋さんに。人間関係のあれこれについて話をしながら、この世の中には自分が想像している以上に特徴的な人がいることを、憂いながらも面白おかしく話す。もう笑うしかない、という人がお互いの環境にいて、ホントにもう笑うしかなくて、笑い飛ばすことでしか前に進めないのだからもう笑うしかないのである。

そんなこんな話をしていて思ったのは、やはりボクはたくさんのいろんなことを心に詰め込むことはできないということだ。周囲の人たちの目に映る「ボク」を気にし過ぎるがあまりに、「えっ?」という違和感を覚えた時はまず一度心に詰め込んでからじっくり考え込んで言葉にしてきたが、これまでのこのやり方を少し変えてみようと思い立っている。なんでもかんでもその場で感じたことをすぐに言葉にするのは子供がすることだけれど、そろそろ自らが覚えた違和感を信じてみてもいいんじゃないだろうかと思うのだ。違和感を抱え込むことは論理的な思考が介在するということ。「今のボクが感じた違和感はどういう意味を持つのか?」という問いかけは、感じた瞬間の瑞々しさを著しく損なう可能性を秘める。いわゆる「考え過ぎ」につながる。「感じ」が言葉で表すことのできるものへと矮小化され、言葉というはっきりとした輪郭が与えられたそのものに自らが囚われてしまう。

心を通過させずにおく。たとえ心を通過させてもその瞬間に感じた何かを大切にする。こうした心構えでしばらく過ごしてみようと思う。こうして思い立った時期と、無償に身体を動かしたくなった時期が重なったという事実はとても興味深いなあと思っているが、このあたりのことは今は語らずにおく。なんだかよくわからないがその方がよいような気がするからだ。しばらくは身体が望むように動き、書き、読む。仕事はわんさかあれども、まあなんとかなるはずだ。

今日は春学期に行った講義のまとめをしようと思ったが気が変わった。読みかけの「街場のメディア論」を読み耽ることにする。