平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「純粋経験」を考える、その1。

西田幾多郎善の研究』(講談社学術文庫)を読み進めている。さきほど第一編「純粋経験」を読み終えた。この本を開いたそもそものきっかけは、5月に行われた運動伝承研究会にて金子明友先生の口から何度も発せられた「純粋経験」である。この語の意味を、本学におられる三木先生に訊ねたところこの書を紹介された。あまりに有名な書物であることはこれまでラグビーばかりに没頭してきたボクでも知っていて、とてもじゃないが理解できそうもない難解な哲学書を読む気にはならずそのときはさらりと意識の外に追いやったのだが、それでもどこか気にはなっていた。で、ふと訪れた本屋で目についてとにかく買うだけ買っとこうと購入し、つい先日、開いたのであった。

今まさに運動している状態をたとえば「運動主体」と呼ぶとすれば、「運動主体」における意識・無意識の問題をどのように考えていけばよいのか。タックルに入る瞬間、ステップを踏む瞬間、パスをしたり受けたりする瞬間、野球ならばストレートを待ちながらカーブにバットを合わせる瞬間、サッカーだとセンタリングにどんぴしゃのタイミングで走り込む瞬間、私たちはどのように思考し、またどのように思考を手放しているのか。この問題について、これまでのボクは「意識」と「無意識」という二つの概念で説明しようと努めてきたが、それではもう限界ではないかと感じ始めていた。

思考を深めなければこの問題を掘り下げることはできない。そう考えるようになったきっかけとなる考え方が「無意識とは自我が作用していない経験である」。つまり意識をしていない・意識がないのが「無意識」なのではなく、本来ならばほぼオートメーションに働くはずの自我が働いていないということである。もう少し正確に表現するならば「自我を働かせないような意識」が「無意識」ということになる。

たとえば幼稚園から小学校低学年くらいまでの子どもを想像してみる。子どもたちは「まだ何も知らない」。タックルの痛みを知らない。だからときに大人が驚かされるほどスムーズに相手を躱わしたりもできる。立ちはだかる相手が大きくても力が強くても「まだ何も知らない」わけだから恐怖を抱くこともなく、だから何のためらいもなくその瞬間に求められる理想の動きに自らをなぞらえることができる。この子どもの精神状態を言い表せばすなわち「無意識=意識をしていない」となる。

だが、大人は違う。様々な経験からたくさんのことを学んでいく過程で自我というものが形成されていく。その成長過程では痛みや恐怖という感情を身につける。もちろんタックルの痛みもどこかで経験する。するとタックルを怖がる自我というものが形成されるわけで、子どもの時のようにただ思うがままにプレーすることができなくなる。タックルされたら痛いし、でも逃げたらみんなに弱虫呼ばわりされるし、でもでもやっぱり上手くもなりたいな、でも痛いのはいやだしどないたらええねん、なんて意識が立ち上がる。どうしてもこのような意識を抱えながらプレーすることになるのだが、それでも運動主体である瞬間には言葉でのんびり思考している時間など存在しない。原則的に運動主体に意識は働かない。だから先ほど述べた「どないしたらええねん」という意識は、その奥底に沈められて意識に上ることはない。仮にそれを『無意識』だということにする。

それなりに経験を積んだ大人の『無意識』と、まだ経験に乏しい子どもの「無意識」とは明らかに異なる。怖いものなしだから動くことのできる子どもと、怖いという感情がありながらそれでも適切に動くことのできる大人の違いである。で、それなりに様々な経験を積んだ運動主体の『無意識』を、先ほど述べた「自我が作用していない経験」だと解釈するのである。こう考えれば運動に関してモヤモヤと考えていたことがらの幾ばくかが腑に落ちる。これまでのラグビー経験に照らし合わせれば十分にすぎるほどに納得できる。

これまでは『無意識』を「無意識的」という風に書いてきたが、もう少しこのあたりを考えてみようと思い立ち、手に取ったのが『善の研究』だったわけであり、そのために理解しておきたいと欲したのが「純粋経験」という概念だった。

さて「純粋経験」である。正直に言えばたった一度の通読だけではよくわからない。通読といえども第一編だけであるが、それでも難解極まりない文章である。しかし、ところどころは理解に至る部分があり、また細かな内容を度外視すればボクが感じていることのほとんどがここには書かれてある、ということだけはよくわかった。ボクが知りたいと欲することがらがまさに書かれてある。ラグビー選手としてまさにボールをつかまんとするその瞬間、つまり運動主体としての自分が感じていたことが少々難解な言葉たちで明察されていると直感するのだ。

言うなればボクたちスポーツ選手はできる限り余計な言葉を遠ざける習慣を身につけてきた(もしかするとこの習慣はチームスポーツに限られるかもしれない)。頭で考え過ぎれば身体が動かなくなるのは自明の事実だ。必要以上に思考することはパフォーマンスの低下を呼ぶ恐れがあるため忌避されがちとなる。その結果、引退後に自らのプレーについての説明を求められても上手く言葉を紡ぐことができないという現象が起こる。現役ながらあれだけ自らのプレーについての言葉を発することのできるイチローは例外だ。大半の選手は上手く説明することができない。あの時のあのプレーで感じていたあの経験を誰かに伝えることはそう容易なことではないのだ。

では自らに固有の経験を誰かに伝えるためにはどうすればよいのか。それは経験分析をしっかりとすることだ。この経験分析のことを西田幾多郎は「思惟」と言っている(のだと思う)。あの時のあのプレーを振り返り、あのときの経験について細部にわたり「思惟」することで、ボクたちスポーツ選手が感じているはずのかけがえのない経験に初めて意味がもたらされる。優勝したとかトライしたとかそんなデジタルなものではなく、人間学的深みとそこから何かを引き出し得るほど厚みのある個人的経験となりうるのである。

ここからが面白いのだが、西田幾多郎はこの「思惟」をも「純粋経験」に立脚しているのだと言うのである。残念ながらこのあたりのロジックをボクはまだうまく説明することができない。それはボクの理解が至らないというよりももしかすると言葉では永遠に説明できない代物なのかもしれないが、とにかくそういうことだ。ただこれだけは言える。過去のある場面を想起するとは言え、想起するのは「現在」である。現在において想起する主体に訪れる理想的な精神状態こそが「純粋経験」そのものなのだ。直接的に知覚するのでなくとも表象するということにおいても私たちは「純粋経験」なる状態を志向できる。そしてそれはすなわち「今の今」にたえず身を置くことに他ならないのだと、ボクは解釈している。

とまあ今日一日はこんなことを考えていたのであった。
しかし書き殴るとはまさに今日のようなブログのことを言うのだな。
書き捨て御免。