平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「話す」への向き合い方。

目まぐるしい日々を過ごしているうちに2月も終わろうとしている。1月は入試と試験、さらには2月の第2週に予定されているスキー実習の準備で忙殺されるのは毎年のこと。「採点の祭典」を乗り越え、スキー実習も大きなケガ人が出ることもなく無事に終えることができて、本当にホッとしている。ふう。これで今週末に控えている浜松での講演に集中することができるというものだ。

その講演のお題は「スポーツが子どもたちにもたらすもの」。結果が重視されるプロスポーツではない「子どもにとってのスポーツ」という観点から、自らの競技経験を踏まえてあれこれと話をしようと思っている。これまでに何度も言っているが「生きる力を伸ばすスポーツのあり方」について話そうと思う。主な内容としては、スポーツ科学の暴走、数値主義の弊害、暴力や恫喝による指導が及ぼす影響、運動指導の適切なあり方、言葉と感覚の関係性などになるだろう。話の筋道だけは立てておいて、あとは思いつくままに話ができたらと思う。もちろん準備は入念にするつもりだ。

ただし直前になればいったんそれを忘れるように努める。これは現役時代に試合に臨む姿勢とまったく同じ。「すべて覚えてすっかり忘れる」。たとえ大切な情報であっても敢えて意識の奥底に沈めてしまうからこそ、咄嗟の判断が必要とされる場面で勝手に身体が動くのである。「ここはキックで攻めてくるはず」という直感は不意に浮かぶもの。いくつかの選択肢の中から恣意的に選び出すような仕方では浮かばない。意識の奥深くに沈殿している様々な情報の中からその場に適切な一つを選び出すのは無意識の仕事なのだ。

学生への講義や講演などを行うようになって思うのは、「話す」もまた身体を使うことに他ならないのだということ。場の雰囲気を察知し、それに応じて話題を変え、話すテンポを気遣いながら喩え話やエピソードをあいだに挟みつつ、話をする。聴き手に深く染み込むように話すには、ただ頭を整理して口を動かしておけばよいと思ったら大間違いである。「話す」ことは五感を研ぎすませて身体全体を使うことを要請する。そう解釈しているボクは、だからラグビーの試合に臨むかのように講演や講義に接しようと心がけているのである。

わかっている。こうした話し方はあくまでも理想的に過ぎるわけであって今のボクには到底うまくできないことは百も承知しているつもりだ。話の筋が次につながらなくて同じ話を繰り返したり、その焦りを抑えきれずに暗記しておいたトピックを書き言葉のままに話してしまったりすることは、しょっちゅうある。それこそパワーポイントを使って順序よく話せばそれなりに滑らかな講演になることはわかっているのだが、でもそうはしたくないのだ。体裁を整えるくらいなら今まさに自分が考えていることを話したい。訥々と話すことを手放したくない。うまく話せなくて講演後に落ち込むことはあっても、ね。もちろんそれなりの結果は出すつもり。いや、出してやる。がるる。

と意気込みつつも実のところ腹の中は不安でいっぱいだったりする。しかしここはボクにとって一つの挑戦なのだな。この不安を解消すべく入念に準備を行うことでしか乗り越えられない壁がある。たぶんこの壁の向こう側はにぎやかで楽しそうなそんな気がするから、これからもそこを目指してジタバタしようと思う。それにしても「話す」ことは難しい。だからこそ相手に伝わったと感じられる瞬間は何ものにも代え難いほどの高揚感が得られる。難しいけど楽しい。難しいから楽しい、だな。さてと。