平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

リーダーシップ考。

今朝、研究室に向かう車の中で「リーダーシップってなんや?」という問いがふと頭の中を過る。たとえばスポーツの世界でも理想のリーダー像なるものがあって、軸がぶれない、競技力の高さを前提として先陣を切るなど、どちらかといえば「猛々しい者」としてのリーダー像がデフォルトとしてあり、それを前提としてリーダーシップのあり方が模索され提示されている。一つのヴァリエーションとして、黙々とやるべきことをこなし口数は少なくとも背中で引っ張るタイプも、スポーツ界における理想のリーダー像に含まれるが、本質的には前述した「軸がぶれない」という条件から逸脱するものではない。そこにもやはり「猛々しさ」をみてとることができる。

てなことを運転しながら考えていたら、ある言葉を思い出した。確かあれは『噛みきれない想い』(鷲田清一角川学芸出版)のどこかに書かれてあったぞと、研究室に着くなり本を開くとやっぱり。新聞をはじめとする各種媒体に掲載されたエッセイ集である『噛みきれない想い』。2007年10月3日の読売新聞に掲載された“「なにやってんのやら」-裏版・リーダー考”(36-38頁)を再読し、「なるほどなあ!」とかつて激しく納得したことを思い出した。松下幸之助の言葉を解釈する鷲田氏の筆舌に唸らされたのである。

かつて松下幸之助は、自社の管理職員を前にして「成功する人が備えていなければならないもの」として3つのことを挙げた。それは「愛嬌」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」である。そしてその後、あなた方はただ運がよかっただけだと、キツイ皮肉を飛ばしたのだという。

「愛嬌」や「運が強そうなこと」や「後ろ姿」からはおおよそ猛々しさは感じられず、私たちが漠然と思い描いているリーダー像とは大きくかけ離れているような印象を受ける。かの松下幸之助はなにを思い成功する人の資質としてこの3つを掲げたのだろうか。鷲田氏は次のように解釈している。

(ここから引用)
「愛嬌」のあるひとにはスキがある。無鉄砲に突っ走って転んだり、情にほだされていっしょに落ち込んでしまったりする。だからまわりをはらはらさせる。わたしがしっかり見守っていないと、という思いにさせる。
「運が強そうな」人のそばにいると、何でもうまくいきそうな気になる。その溌剌として晴れやかな空気に乗せられて、一丁こんなこともやってみるかと冒険的なことにも挑戦できる。
だれかの「後ろ姿」が眼に焼きつくときには、見ているほうの心に静かな波紋が起こっている。言葉の背後に秘められたある思いに想像力が膨らむ。何をやろうとしているのか、何にこだわっているのか、そのことをつい考える。
 そう、見るひとを受け身ではなく、能動的にするのである。無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、そこへと他人の関心を引きよせてしまうからだ。
(引用ここまで)

初めて読んだ時、ボクはなるほどなあとその場でへたり込んでしまうほどに納得した。この3つの資質を兼ね備えた人物がリーダーを務める組織を想像してみて、なんと楽しげではないかと直感したからである。「愛嬌」があるのだからリーダーらしからぬ失敗はおそらく日常茶飯事で、そこには笑いが絶えることはないだろう。それでも肝心要の問題に関しては遺憾なく力を発揮するから大事には至らず、というよりも大きな成功へと導かれることになる。だから、部下たちはこう思う。「失敗だらけやのになんでこんなにうまく事が運ぶんやろうか」と。それで辿りつく結論は「この人は運がよい」。この人がおったらなんとかなるやろという安心感が組織全体を包み込む。さらには、こちらの理解を絶する人物としてその後ろ姿を眺めたときには、何かしら考えざるを得なくなる。「どんなものを食べて、どんなことを考えて、普段はどんな生活をしてるんやろか」という興味・関心を通じて、自らの人生を問い直すきっかけにもなる。

こんなリーダーがいる職場ならなんて楽しいだろう。同時に、こんなコーチや監督が率いるチームの練習や試合ならなんて楽しいだろう。「こうしろ、ああしろ」とプレーのいちいちを注意されることなく、ニコニコしながらピント外れなアドバイスをくれたりしたら、ボクならリラックスして試合に臨むことができるなー。もちろん的確なアドバイスもときには欲しいけれど。

それでよくよく自分のことを振り返ってみたら、ラクロス部の顧問としてボクがやろうとしていることはこういうことなんやなと、なんだか腑に落ちた。できているかどうかは部員に訊いてみないとわからないが、つまりはボクが目指しているのは学生たちがリラックスして練習や試合に臨める雰囲気作りなわけだ。だから心掛けているのは“とにかく陽気に”グラウンドに登場することで、とにかく学生たちが持てる力をすべて発揮できるような雰囲気作りが第一にあり、このチームを勝たせようなんておこがましい考えはこれっぽっちも持ち合わせちゃいない。あくまでも「ラグロス」指導者だから勝たせることなどとんでもない。ただし、「勝たせる」ことできないことを自覚しているだけで勝利はとことん追及する。負けず嫌いだしね、ボクは。

こんなこと書いたら、「そんな甘いこと言っとったらアカン!」というスポーツ関係者からの有り難きアドバイスの声が聞こえてきそうだ。確かにおっしゃるように甘いとは思いますよ。でもね、プロスポーツの指導者でもあるまいし、そこまでガチガチにやったところで何が楽しいんやろかとも思うんですよね。プロスポーツではなく学生スポーツ(中学、高校の部活含む)なのに、勝利を至上命題に掲げてやたらめったら厳しい指導をなさっている方が多くおられる。それが生徒や学生のためだと疑いもなく指導されておられるけれど、それっておもろいんですかね。指導者としておもしろいんですか?というところがボクには逆立ちしても理解できないのです。身体を動かすことって本来楽しいもんでしょ。なのにあれだけ苦しそうな顔で走って、ボールを追いかけて、そんな表情の生徒や学生を見てたらボクだったら気分が悪くなるけどなー。それに、あれだけのことをやって、学業をも疎かにして打ち込んだところで得るものは県で一番とかでしょ?あれだけしんどいことしてるんだから日本一どころか世界一までを視野に入れて、将来プロで飯が食えるようにきちんと指導したらええのになあって。どうせならとことんやらないと、ね。それだったら甘ちゃんなボクでも我慢できる気がするなあ。いや、やっぱりいやだな。身体的にキツイ練習は耐えられそうだけど、罵詈雑言に耐える器量はボクにはない。

てなことでちょっと愚痴っぽくなってしまったが話を元に戻す。
リーダーシップの話だった。

ここ数日はサッカー日本代表監督就任の話題が持ち上がっているが、その報道のされ方からも、「猛々しき者」が理想のリーダー像であるという無言の前提が感じられる。「引っ張っていってくれるかどうか」という軸で語られているような気がする。まあそれはそれとして、ただあの松下幸之助が語った3つの資質から私たちが学べることはたくさんあると思う。「人を受け身にではなく、能動的にさせる」と鷲田氏が解釈したように、自分の頭で考えて行動するということを本質的に考えないうちから理想のリーダー像を掲げるのはどうか。ボクとしては、理想のリーダー像などという型はつくらずとも、その場に集まった人間が気分良く過ごせるようにする方法をじっくり考えていくだけで、もうそれだけでよいのではないかと思っている。まあそれが一筋縄ではいかない難しいことなわけだが、ただその点でこの「愛嬌」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」からは多くのことを考えさせられる。

そういえば、元早稲田大学ラグビー部監督中竹竜二氏が『リーダーシップからフォロワーシップへ~カリスマリーダー不要の組織作りとは』という本を出していたよな。フォロワーシップか。このあたりをもう少し勉強して「リーダーシップ」について学生たちと話し合ってみたらオモシロいかもしれないな。