平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

じわじわ染み入るあの感覚。

昨夜はがっつりとお酒を飲んだから二日酔いが心配されたものの、意外にもスッキリ元気な状態で、今まで研究室で仕事をしていた。西田幾多郎の「純粋経験」という概念を理解するためにせっせと読み、心に響いた箇所を抜き書きする。ストンと腑に落ちるというよりも、何度も読み返しているうちにじわじわ身体に浸透していくような読み応えがあり、抜き書きしたものを声に出して読んだ時に「ピン!」とくる場合もあって、なんだかとても愉快である。

そういえばボクが内田先生の著書を読み始めた時もこのような感覚で頁をめくっていた。それほど本を読んでいたわけでもなく、活字慣れしていなかった当時のボクは、わかるようなわからんような不思議な感覚で読んでたことを思い出した。で、何冊も読み終えたころにはその文体に馴染み、書かれてある事がらについて「おそらくこういうことを言おうとしているに違いない」という確信を抱くようになった。西田幾多郎の『善の研究』を読みながら感じているじわじわ感は、あの時の感覚とよく似てるような気がする。つまり、ボクはこうした読み方が好きで、割と自分に合っていて、理解に時間を要するような、つまりは実経験が伴うことで腑に落ちていくような事がらについて書かれた本が好きなのだと思う。という嗜好を形成したのもまた内田先生からの本を読んだからだと思われ、この入れ子構造がまた面白いなと思う。

ということを考えていけば、中高時代の同級生と侃々諤々やった昨夜の宴のことが思い出されて、何をもって「豊かさ」とするのか?、教育の目的とするところは?(社員教育と学校教育の違い)なんてことについて、「オレはここは譲れない」とつい熱くなって皆に食いついてしまったのだが、帰りのタクシーと今朝方にあれこれと考えている最中に、普段感じていたことが次々と腑に落ちていった。まさしくピンと来たのが『街場のメディア論』に書かれている内容で、医療と教育の崩壊を招いた責任がメディアにあるというところ。企業の最前線で身を張る彼らが学校教育のことをどのように考えているのかを肌で感じて、まさしくそこにはメディアから大きな影響を受けていることが直感されたのである。

もう少し書きつづっておきたいところだけれども、このあとは教職員の方々とゴルフの打ちっぱなしに行くのでこの辺で筆をおきたいと思います。それでは今日も、書き捨て御免。