平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

無意識に沈み込んでいた記憶に言葉が宛がわれる経験。

目覚めると気持ちのよい天気に気持ちが清々しくなる。夜には雨が降り出すらしいのでバタバタと布団を干して洗濯物を干す。それから新聞に目を通してパソコンを立ち上げる。

今週は、いつもの1週間よりも少しだけ気を張っていたなあと思う。休日の朝独特のやわらかな雰囲気にいつまでも浸っていたいと強く感じるからだ。緊張感から解き放たれたあとの緩やかな感じはとても心地よく、いつまでも手放したくなくなる。木曜日に御影『ペルシエ』で行われた内田先生との対談には、やはり幾許かの緊張を感じていたのだろうと思う。楽しみで楽しみで仕方がないという気持ちと、どんなことを話せばいいのだろうという杓子定規な不安とが入り交じって、とにかく身体が固まっていた。そんな感じである。

と言いつつも、いざ始まってしまえば終始楽しく話をさせていただき、また貴重な話をたくさんうかがうことができた。麻雀卓を囲みながらではできない話を中心に(当然ながら)、日本の体育や競技スポーツについての話題に終始した。

これまでスポーツ界の真っ只中を生きてきて、今もなおスポーツ関係者に囲まれていると、スポーツのことをいささか批判的に捉えようとしているだけに孤立感を感じることがとても多い。今はまだこの話はできないとか、これ以上の内容を話すべきではないとか、どこかで自らのストッパーをかけているのが現状である。

それに加え、ラグビーに替えてはじめた研究はまだ緒に就いたばかりで、学問的な根拠をもとに自信を持って語れるものなど何ももってやしない。だからストッパーをかけるも何も、今のボクが口にすることができるのは仮説の域に過ぎなくて、どうしても語尾がぼやけるようにしか語ることができないのである。当然といえば当然のことなので、こうして敢えて言葉にするほどのことでもないかもしれないが、でもそういうことだ。だからどこか汲々としている自分がいる。

対談の内容はまた紙面を見ていただくことにして、対談が終わっての率直な感想は「こんな話をするなんて思わなかった」であった。対談で話す内容については事前にある程度イメージしておいたのだが、グググッと身を乗り出して話したのはそのイメージの外側にあるものばかりだった。それはまさしく内田先生の導きがあったればこそで、先生のあとを着いていけば必ずどこかに辿り着くであろうという確信のもとでは無意識に沈み込んでいるいろいろな経験が甦ってくるのだ、不思議なことに。

「痛みが移動する」話を楽しげにできたのもそうだし、過日のブログに書いた「ウェールズ戦のハイパント」にしても話しているうちにより詳細に思い出されてきて、今ではアリアリと記憶の中心に居座っている。混沌としていて無意識に沈み込んでいた記憶に言葉が宛がわれる経験は(つまりこれはボクがボクであることを証明してくれるものだが)、まるで脱皮したかの如くに清々しい感じがするし、と同時に少し気恥ずかしい気持ちも湧いてくる。

それにしても先生と話をしていると自分自身のことが好きになってくるから不思議である。「なんや、このままでええんや」とか、「ボクの考えは間違ってなかったやん!」とか、揺れに揺れまくっているボクという自己がスッと落ち着くのである。

で、今回の対談から得た大きな気付きは、確かに今のボクには学問的に確信を持って語れることはほとんど何もないけれど、これまでの経験から語りきれることはたくさんある、ということ。経験則に基づく、というのは独りよがりな言説になりがちなのでそこらあたりは丁寧に考える必要があるにしても、この身を通じて得たことから出発すればボクに語れることはおそらくたーくさんある。そう強く感じることができた。こう考えると何だかドキドキしてくるではないか。

内田先生をはじめ橋本さん、足立さん、カメラマンの広瀬さん、貴重な時間をありがとうございました。またいつか一緒にお仕事させてください。

それから順一と高倉とSCIXの高校生たち。本当にありがとう。

『考える人』は7月に発売予定です(確か初旬)。
また日が近づけばアナウンスしますので、皆さん読んで下さいねー。