平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「栄養学」と「食べるということ」。

土砂崩れで神戸電鉄が不通になるほど激しく降り続いているここ北区は鈴蘭台。雨が激しく窓を叩きつける中をせっせと研究業務に勤しんでいる。先ほどツイッターで知った「宮崎県で起こったこと」を読み、激しく心がかき乱されている。口蹄疫による殺処分で10万頭を超える家畜が殺されたのは新聞やテレビで知っており、それを目にした時にはいくつもの命が絶たれたことに憤りの感情は芽生えたが、それでも本当のところは何もわかっていなかったのだと気づかされた。報道からだけではボクが想像しうる範疇での憤りに過ぎなかった。現場にいて農場を営む方がどれほどの思いをされているのかを知らずして何を憤っていたのかと、今となればとても恥ずかしい。

茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩が頭に浮かび、自分の感受性は自分で守らなければならないのだということを痛烈に実感した。自分がまるでばかものになっていたことに気がついて背筋が伸びた。「殺処分」という言葉のひんやりとした手触り感にもっと敏感にならなくてはいけない。そんな類の言葉が身の回りにはたくさん飛び交っている。そのことを肝に銘じ、身体を通じた温かみのある言葉で社会を埋め尽くす努力をしよう。ささやかな努力を続けていかんとアカン。


さてと、昂る気持ちを少し落ち着かせて書いていくことにしよう。

明日の健康行動学では健康の三要素とされる「栄養」についての話をする。とは言っても栄養学的な話だけをして終わりなのではなくて、4週ほど続けて「食べるってこと」についての講義を考えている。その1回目としての「栄養」。結論から言ってしまえばボクは栄養学には何ら興味を抱いてはいない。現役時代にひたすら栄養学的な食生活を試みた経験を踏まえてそう感じている。食べものを数値に置き換えて何がわかるというのだろう。もしくは栄養素に置き換え、まるでパズルのピースを組み合わせるようにして理想の食事を算出したところで、健康が手に入るはずもない。得られるのは自己満足だけである。

そう考えているのでできれば栄養学的な話は避けたいのであるが、今の社会を見渡してみればそういうわけにはいかない。栄養学的根拠に基づいた各種健康食品が大量に売られている昨今では、それらの知識を知っておかなければ怪しげな商品に懐疑的なまなざしを向けることができないからだ。つまり、食生活を根本から見直すために栄養学的な知識を得るのではなく、自分の身を守る術として「知っておく」。そのために6大栄養素についての講義をしようと考えている。内容としてはそれほど複雑ではなく、高校までに一度は耳にしたり学んだりしたことがあるはずなので復習を兼ねて聴いてくれればよい。

そもそも栄養学の何が問題なのか。それは「身体を均一的な視点で捉える」ところにある。「個人差があると言ったって人間の身体ってだいたいこういうもんだから」という視点から逃れられないというところで、どうしても限界を感じるのである。

1日に3食きっちり食べることが健康の秘訣だというけれど、室町時代以前は朝と晩の2回だったというし、確かに平均寿命ということから考えればやはり「1日に3食」なのかもしれないが、現代社会には慢性的な頭痛や肩こりや腰痛などで身体に不調を訴える人がたくさんいることを鑑みればあながちそうとも言えないだろう。1日3食とらなければならない納得のいく根拠を、いまだかつて聴いたことがないし読んだこともない。

基礎代謝量からの算出?
だいいちカロリーみたいな食事をただ数字に換算しただけの考え方にはこれっぽちも心を動かされないよ。青汁1杯で生活されている森美智代さんの基礎代謝量は約60kcalだけどそれはどのように説明するつもり?なぜ青汁1杯で生活できるのかについては第4回目の講義で話をするつもりだが、脊髄小脳変性症を患ったことがきっかけで少食療法を始めてからどんどん食べる量が減っていき、約8年かけてたどり着いた分量が青汁1杯。それ以上口にすれば太ってしまうほどの身体は、とにかく消化吸収率が高い。つまり、わずかな食べ物でもそれらをフルに活用できるほどに腸内の環境が変化し、捨てるはずのアンモニアさえも再利用できるのである。これはまさに身体の進化である。森さんの身体ではそれが「食べない」という方向性のうちに為された。この事実ははっきりと認識しておくべきだろうと思う。当然のように森さんの身体は栄養学的にみても解明できないものだそうだ。

一度にたくさんの食料を口にするよりも何度かに分けた方が太りにくい?
そもそも太りにくい食べ方がよい食べ方なのかという問題がある。人類の誕生が約700万年前だからそのほとんどが飢餓状態におかれていたわけで、食べられる機会にはたくさん食べて、しかも余剰分は体内に蓄えておくように身体が進化してきた。身体の仕組みがそうなっているのだからそれに抗うような食べ方が身体に優しいとは言えないだろう。それに引き換え栄養学の発達はここ数十年のあいだ。たった数十年の研究からはたくさんのことを言い切れるはずもないのに言い切ってしまうその態度が信用できないのである。

「栄養学」よりも「食べる」の歴史の方が明らかに長い。ならば永年の月日の中を生き延びた先人から学ぶべきではないか、というのがボクの基本姿勢である。食べるものを気にし過ぎるあまりに親しい友人たちとの食事が楽しくなくなるあの感じは孤立感につながるし、栄養素を気にすることで健康管理ができているという思い込みは思考停止につながる。豚カツの衣をはずして食べればお店の人は怪訝の顔をするし、プロテインサプリメントで補ったつもりになれば身体のことを考えなくなる。それもこれも今だから言えることなのだが。

「個人差があると言ったって人間の身体ってだいたいこういうもんだから」という見立てから出発した思考は、身体に関する本質的な理解にはいつまでたっても到達できないだろう。たしかに「そこそこ健康な身体」を手にすることはできるかもしれないが、健康食品に依存する心性がつくられるのは目に見えてるし、適度に病院にお世話になるほどの健康しか手に入らないだろう。あくまでも「そこそこの健康」である。言い換えれば「均一的な健康」だ。栄養学的な考え方を取り入れた生活を心がけるのなればこのことだけは頭に置いておいた方がよいと思われる。

なんてことを大風呂敷を広げてみたところでボクはまだ35歳で、実を言えば35歳の分際で健康について語れることなんて何もないのだ。だってもし40歳くらいで早死したり、病気になったりすれば、すべてがウソだったことになる。「あんな偉そうに言ってたのに自分が病んでるやんか」ということになる。だから心のどこかで後ろめたさを感じながらこうして書いているが、しかし思うところを書いておかなければボク自身が健康を害する(笑)。

今日書いたような考えは、脳震盪の後遺症という原因不明のケガを患ったときの実感と研究から出てきたものである。内田樹先生や甲野善紀先生のご著書、中でも肥田春充の生きざまから学んだことが大きく影響している。身体って本当に複雑極まりないものなのに、シンプルな物語に流し込んで無理やり理解していることに気がついたのである。それで自らのこれまでを振り返って「そりゃ後遺症もでるわな」と納得したのである。自業自得だったのだと思えてようやく一歩を踏み出すことができた。

明日の講義は1年生を対象にした必修科目ということなのでここまで深く話すつもりはないけれど、あくまでも栄養学に対する基本姿勢は崩さないままに6大栄養素についての話をします。ちなみに次週は「健康食品との付き合い方」、その次は福岡伸一さんの『動的平衡』 をもとに「分子生物学的視点から見た“食べること”」、4回目は森美智代さんを紹介して「少食療法」。食べるということについて学生たち自身であれこれ考えられるように、いろいろな角度から投げかけてみたいと思っています。