平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「マネジメント」という語感は好かん。

このままさらりと去っていくであろう3月。秋学期が終わり、待ちに待った春休みに突入してよろこんだのも束の間、もう4月は目の前である。毎年同じように感じるのなら年を経るごとに計画的に過ごせるようにはならないものか。と、毎年、考えているが一向に変わらない。いつもあっという間に過ぎ去っていく。僕の怠惰な性格が問題か、それとも季節に特有なものか。はたまた生物学的なものが原因か。熊などの動物が冬眠から醒めるように人間もまたそうで、遺伝子に刻まれる太古の記憶がこうした体感を呼び起こすのかもしれないぞ。

というのは明らかに大げさ過ぎるね。

さて、今日は年に一度の健康診断の日であった。やや血圧が高めなのは現役時代からで、本日もまた高めの数値。さほど気にしてはいないが、ちょっとだけ気になってはいる。血管が固いのか、それとも血液が粘っこいのか。とにかくストレスを溜めないように気をつけねば。それから確実に運動不足なここんところの生活なので、シャトルランやうさぎ跳びやジャンプトレの時間を積極的につくるべし、だな。とはいえ10日ほど前に痛めた左足の親指がまだ腫れているので、しばらくはエアロバイクで我慢することにはなりそうだが。

というわけで本日はエアロバイクを40分。足の様子をみながら四股を100回。とても気持ちがよい。この気持ちよさには汗を流すことの爽快さも含まれるが、それ以上に身体を使うことがもたらす何とも表現しようのない心地よさがある。なんといったらいいのか、心身の蟠りや詰まりが流れていくような、そんな感じである。喩えるなら仕事上で悩みを抱えているときに、悩みそのものが消え去るというような具体的な効果はないにしても、その糸口がふっと見つかる、いや見つかったような気になって心が少し軽くなるというような、そんな状態だ。

「八方塞がり」から脱出し、一縷の望みがみえるところまで連れていってくれる、ときもある。少なくとも僕にとっての運動はそんな意味がある。

だから、運動がもたらしてくれるこの心地よさを生理学的な理由で説明するのだけは避けている。せっかくいい気分になっているのに、最大酸素摂取量が上がるとか、一回あたりの拍動数が増えるとか、そんな実感できないことを並べ立てられたら興醒めするからだ。だいたい健康に関する生理学的な知識の野暮ったさといったらない。

・・・おっと、これ以上はやめておく。健康に関する講義を担当している身としては、これ以上語ればその言葉がブーメランのように自分に戻ってくるからだ。自分の首を絞めることは避けるのである。

とにもかくにも健康を維持・増進するためには身体からの声を聴くことに尽きる、とだけは言っておきたい。それを前提とした上での栄養学であったり、生理学であったりすると僕には思われる。身体は「マネジメントする」ものではなく、「生きられる」ものなのだ。外側からの管理には決して馴染まない。そんなことしたら機械的になってしまう。身体中にボルトが埋め込まれたまるでサイボーグのような僕が言うのだから、間違いありません。現役時代のある時期に、徹底的にマネジメントしてきた僕からの提言であります。