平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

福岡伸一『動的平衡』を読む。

今日も朝からいそいそと研究室に来る。
ゲスト講師の手配などの事務的な仕事をやっつけた後は研究室に戻り、読みかけの本を手に取る。ここんところ読み耽っているのは動的平衡 』(福岡伸一木楽舎)。
敷地内に建設中のスポーツ健康教育センターからの“とんてんかん”という雑音が少しも気にならないほどの集中っぷりで、ひたすらページを捲る。そして読了。なんとも清々しい読了感であった。

あまりに気分が清々しくなったので、さささっと着替えをすませ、体育館に降りていって一人バスケにふける(なんでやねん)。なぜだかよくわからないがとにかく身体を動かしたい衝動に駆られたのである。突発的に身体を動かしたくなるのは何も今に始まったわけじゃなく、これまでにもたまに訪れることはあった。現役時代の頃のように激しく動きたくなることはほとんど皆無だけれど、今日のように気分が高まったときなどに身体を動かしたくなるのである。それは、散歩や掃除程度の運動強度でも満足であって、今日みたいに研究室にいて、しかも体育館に誰もいなかったりすればバスケになるだけで、とにかく動ければよい。たぶん、脳みそ主体の中枢的な身体運用をリセットしようとしているのだろうなと僕自身は勝手に解釈しているが、本当のところはよくわからない。

とにかく動かしたくなるから動かしているだけで、それに特別な意味など付与する必要もなく、だからどっちでもいいのである(開き直り)。

さてと話を『動的平衡』に戻すことにする。

とてもとてもおもしろかった。福岡伸一氏の本は『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『できそこないの男たち 』(光文社新書)に続く3冊目となるのだが、毎度のことながらとても科学的でありとても哲学的である文章に、ため息混じりの感動が得られっぱなしであった。

現役時代、脳震盪の後遺症と診断される前の未熟な僕が抱いていた身体観は、デカルト以来の機械論的身体観であった。

ケガをする→病院に行く→完治までの時間を知る→治療・リハビリを行う→復帰

自らの身体に起こるすべてのケガや病気はこうした一連のプロセスで解決できるものだと信じ込んでいた。というよりも疑うことすらしなかった。折れた骨をプレートとボルトで固定し、断裂した靭帯は手術により縫合する。古傷が痛めばテーピングを巻き、痛みが強ければボルタレンを飲んで練習や試合に身を投じる。ケガは身体の不具合であり、機械としての身体が故障をしているのだから、不具合が生じている部分に処置を施せばそれでよい。事実、骨折箇所の手術はプレートを当ててネジでグリグリするわけで、まさにこれは機械として扱っていることの証左であろう。

大学の講義では共通教育の「健康行動学」という講義を受け持っている。ここでは健康についての基礎知識を教えているのだが、現代社会に通説としてまかり通っている健康法のほとんどはこの機械論的身体観に基づいたものであることに、準備をしていていつも愕然とする。たとえば、ダイエットをするにあたって食事をカロリーに置き換えるあの方法もそうで、ようするにエネルギーの消費量に合わせて摂取量を調節するという考え方が根本的にある。いくらエネルギーの消費に個人差があることを考慮するといってもそれは代謝量という明確に把握しづらいもので判断する他はなく、軽自動車とベンツでは必要なガソリンの量も質も変わってくるという話でしかないわけで、この方法の不備に気がつかない人が多いことに不思議でたまらない。

ウエイトトレーニングなんかもそうで、破壊された筋繊維は以前よりも太く強くなる(超回復)という性質を利用してカラダを大きくするものでしかなく、トレーニングで筋繊維を破壊し、プロテインなどでたんぱく質を補い、成長ホルモンがよく分泌される時間帯を狙って睡眠をとるサイクルがよしとされる。近頃は単なる筋力アップが目的ではなく、各競技の運動特性に応じたトレーニング方法が開発されているから、「筋トレは悪だ」などと単純に考えてもらっては困ると反論する声があるかもしれないが、底流する思想にさほど大きな違いはない。「いかに疲れるか」を視野に入れてプログラムが作られている以上、それは「身体を機械に見立てる」こと以外の何ものでもなく、だからどのトレーニング方法を選択したとしても大した違いはない。

今年の2月に龍谷大学で講演をさせてもらったとき、講演後の打ち上げでトレーニングセンターに勤務されているトレーナーの方々と議論を交わしたが、どうしても機械論的身体観に基づいた議論に向かってしまうことに徒労感を覚えたのは記憶に新しい。ビール片手に彼らと話したあの時間を僕は心より楽しんだ。彼らは何よりも真剣だった。だからこそ僕は楽しかったのだと思う。ただ、それほど楽しかった分だけ徒労感もまた深かった。機械論的身体観というものが本人たちの意識に上ってこないほどスポーツ界を席巻している事実を、儚くも突きつけられたからである。彼らの無邪気さに泣かされる選手がどれだけいるかを想像すれば、胸中穏やかでいられるはずもない。各部位にある筋肉を鍛えてそれを集約させたところで身体は練磨されることはないのである。

脳震盪の後遺症を患うまでは僕も機械論的身体観でラグビーを行ってきたと先に書いた。だから、この身体観でスポーツすることが精神的に楽ちんであることは理解している。身体に関してシンプルなストーリーを採用すれば余分なことを考える必要がなくなり、グラウンド上のパフォーマンスに集中できる。単一な物語に流し込んでしまえば悩みなど生じない。ケガをして落ち込んだところで医者に診てもらえば復帰までの青写真が描けるわけである。あとは命じられた治療とリハビリを懸命に取り組むだけでいい。ちょっと無理をして復帰時期を早めれば「不屈の根性」とかいう修飾語でメディアが盛り上げてくれる。選手としての知名度も上がり言うことなしである。

だが、身体の本質に逆らった方法で身体に接していけば必ずそれなりの結果がもたらされることだけは覚悟しておくべきである。これは僕が身をもって断言できる言葉である。「無理は禁物」なのである。誤解しないでほしいがしんどいことを避けろというのではない。機械論的身体観に基づいた考え方を改めて、もっと身体・生命を本質的な位相で捉える努力をしようやないかということなのである。

現代社会では、ちょっとアンテナを伸ばしておけば身体に関するあらゆる知識や情報が耳に入ってくる。でも、身体・健康に関するテレビやネットなどからの「黙っていても耳に飛び込んでくるおいしい情報」は、ほぼすべてがウソだと思っておいて間違いない。だから、そうしたウソもんな情報をかき分けて真理に辿り着くにはそれなりの努力が必要となる。何も学術的に勉強しろとか難しい本を読めとか言うのではなくて、「自分の頭とカラダで考える」ということである。

機械論的身体観から抜け出すためには自分の頭とカラダで考える必要がある。生活実感から出発して思考を始めていく上で極めて重要な概念となるのが、この「動的平衡」である。自分の存在とほぼ同義の身体は一時的な分子の「淀み」でしかなく、生命現象を構造ではなく効果であると考えるこの「動的平衡」という概念は、機械論的身体観の対極にあり、身体・生命の本質を私たちに引き寄せる。生命にとって「食べる」という行為がどれほど大切かも読めばわかる。ぜひ手にとってみてほしいと思う。

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生命、自然、環境――そこで生起する、すべての現象の核心を解くキーワード、それが≪動的平衡≫(dynamic equilibrium)だと私は思う。間断なく流れながら、精妙なバランスを保つもの。絶え間なく壊すこと以外に、そして常に作り直すこと以外に、損なわれないようにする方法はない。生命は、そのようなありかたとふるまいかたを選びとった。それが動的平衡である。(福岡伸一 『動的平衡』 木楽舎 254頁)
  
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動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか