平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

言葉の本質は「沈黙」である~「動く」と「書く」。

新型インフルエンザの影響で神戸はどうやら大変なことになっているようである。

大学に向かう道すがら、信号待ちのあいだに道行く人を眺めているとほとんどがマスクを着用している。そこからふと隣の車の運転手に目を移すと、またマスクをしている。大げさに言えば、一目では個人が特定できずパッと見では誰が誰だかわからない。そういうところを見てなんだか「大変なこと」になっているみたいだぞと思ったのである。テレビやネットから得られる数字を中心とした情報だけではどうにも実感に乏しい。

うちの大学も今日から22日まで休校である。なので今は学生が1人もいないひっそりとした学内で、しかも体育館の2階というさらにしーんと静まりかえっている空間にいる。不謹慎であることは百も承知で言わせてもらうなら、「講義のない1週間となれば研究業務に集中できるぞ」というワクワク感が心にときめいている部分はどうしても否定できない。“あーオレは学校が休みになったことで喜んでいる世の子どもたちと同じなんだなあ”と、あの頃から何も変わっていない自分に気付いて愕然としたりもするが、そう感じてしまっているのだから仕方がない。

インフルエンザの感染者が今も増え続けていて、大阪府が「流行警戒宣言」を発令したことをパソコンの画面で確認したりすれば、今が緊急事態であることに疑う余地はないのだが、もしかすると「ここではないどこか」で事が起こっているのではなかろうかという疑念が晴れないのは、僕がまだまだ大人になり切れていないからなのか、単なるバカだからなのか。

とにもかくにも僕が新型インフルエンザが及ぼす影響の大きさを実感するのは、今のところはマスクマンたちの存在なのであった。まことに呑気なものである。でかい図体をして大人になり切れていないわが身なのであった。

さて、すっかり放置プレイだったこの10日あまりのあいだは、講義と会議に忙殺されていた。体調があまり芳しくなかったために(おっと!)書く意欲が湧いてこなくて、往生していたのである。ここんところはずっとこんな腑抜けた状態だったので、書けなかったことを今さらどうこう言い訳するつもりもないわけだけれど、やはり「書く」ためにはそれなりに複雑な心的作用が伴うものだよなと、ネットで書き始めて8年目を迎えようとしている今になってもそう強く感じる。

だいたいがカラダで物申しながら生きてきた身である。ゲーム中に交わされる言葉はわずかであり、まさにボールが繋がりゆくあいだには言葉が入り込む余地のない無意識的な身体感覚がむき出しになるわけである。「阿吽の呼吸」と言えば聴こえはよいが、そこまで格好いい語感を響かさずとも抜き差しならない状況にいればすんなりと身体が動かされるわけである。ボールが来たから受ける、ディフェンスがタックルに来たから交わすなど、まるで誰かに導かれるようにして走ったりぶつかったりしてきたわけだから、言葉を介して何かを表すというのは僕にとって本来的には苦手なことのはずなのである。でも、長らくブログを読んでくださっている人には分かってもらえるとは思うが、僕自身は「書く」ということに対して苦手意識は持っていない。むしろ楽しげな営みとしてインプットされている。そうでなければ7年間も書き続けられるわけがない。

こうした感覚的な動き、つまりは無意識的な動きは、おそらく僕の身体に刷り込まれている。「まずはやってみよう」と身体を使おうとするその性癖がまさにそうだと思われる。だから言葉の介入を反射的に嫌うのは僕にとって自然なことである。「書く」というのは言葉を綴るということであり、だからあまり「書く」ことに乗り気になれなかったのだろうと思う。感覚と言葉は相容れないのである。

と、「感覚と言葉は相容れない」という実感は少し身体を使ってみればすぐに理解できることだろう。感覚を過不足なく言葉に置き換えることは不可能である。つまずいたときにこけまいとして咄嗟に動いた身体運用を、言葉で一元的に説明することはできない。

ではどのようにして無意識的な身体運用についての記述が為されるのか。

それは、こけずになんとか持ちこたえた後になってから、事後的に「こけずに済ますことのできた身体運用」について語るしかない。バランスを保とうとして、どんなにわずかな周囲の情報をも取り入れようと開放的になった無意識的な身体には、たくさんの情報が吸収されているはずである。身体のあちらこちらに収まっているこうした情報を整理するために必要となるのが、言葉である。感覚と言葉は相容れないものであることの実感は、このような時間的なズレというものも含まれており、だから動き方の説明を事細かになされた後は、意外なほどに身体は動かない。言葉に覆い尽くされた身体は脳の縛りがかかるために、かえって動きづらくなるのである。

つまり、「動く」と「書く」は違うものなのである。頭で考えていけばいくほどにその違いは際立ってきて、自分自身が引き裂かれていくのが想像できてなんだかとてもしんどくなる。「書く」ことがどんどん億劫になる。だって、かったるいのだ、実感として。身振り手振りを交えて話す方が手っ取り早いし、「こういうことやねん」と動いてみせた方がどれだけ楽で、自らの精神衛生を考えると随分清々しい。感覚に遅れてやってくる言葉を、どうにも捌けないでいたのがどうやここんところの停滞だ。

ただね、ここのところがとても大切で、「動く」と「書く」は違うものである、と判断を下すのが脳みそであるということを忘れてはいけない。だから頭で考えていけばいくほどに「動く」と「書く」は乖離していかざるを得ないのである。言葉なくして頭で考えることはできないわけで、「動く」と「書く」は違う、ということを考えるということは言葉に言葉を重ねることであり、考えれば考えるほどに違いが際立ってくるのは、言葉には「境界線を引く」という性質があるからである。言葉だけを使って理路整然とした答えを探る営みの果てに訪れたのが、「動く」と「書く」は違う、という答えなのである。

感覚と言葉、「動く」と「書く」の違いは、いつの頃からか考え続けてきたテーマであり、たぶんこれからもずっと考え続けていく主題となること間違いないのだが、これまでは同じところをぐるぐると思考してきた感があったところに一縷の明かりが差しこんだように思えたのは、吉本隆明の講演をNHKで見た時であった。吉本隆明は「芸術言語論」という言葉を掲げ、「言葉を一つの木に喩えるとするならば根に当たる部分は“沈黙”である」と語っていた。人類が言葉を獲得したまさにその瞬間、何かを相手に伝えようとして言葉にならないうめき声のようなものを発したときに込められた想いや心みたいなものが、一番強い。沈黙としての世界から言語的世界に踏み出した一歩目に、言葉としての本質が宿っている。現代では言葉数も増え、ほとんどの事象を言葉で説明できるようにさえ思えるが、何かを説明するだけの言葉は枝葉の部分でしかなく、本質的なのは「沈黙」なのである。おそらくはこういうことを吉本氏は語っていたのであろうと解釈されるのである。

朴訥と語られる氏の言葉は僕を惹きつけるには十分過ぎるもので、僕なんかが吉本隆明を語ることは許されないとは思うのだけれど、それでもやはり感動したものはしたものとしてここに綴っておきたく思い書かせてもらった。この吉本氏の言う「芸術言語論」は、感覚と言葉が地続きであることを示唆するものであり、すなわち「動く」と「書く」は本質的には繋がっていることが予感されもする。その理路は、今の僕にはまだうまく説明できそうもないのだが、ただ、これから思考を深めようとしていく方向としてはおそらく間違ってはいないだろう。

未だかたちにならざるモヤモヤした何かを抱え込み、それをどうにかして言葉で発信しようとジタバタする。沈黙から一歩踏み出した言葉にこそ心や想いが宿る、という吉本氏の言葉を頼りにしながら、また今日から書いていこうと思う。