平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

連休明けに呟いてみる。

連休が明けたにも関わらずどうにも休みモードが抜けないまま、研究室に来る。
ダラダラと長く休みが続くよりも、適当な休みをはさみながらの日常の方が僕は好きなのだが、それは休みが明ける前夜と翌朝目覚めたばかりの瞬間のやるせなさを乗り越えるのが億劫だからである。あまりに休み過ぎるとすぐには身体のスイッチが入らない。特に休日に別にすることもなく「のほほん」と過ごしていた時ほどそうなる。そうなのだ、このGWはひたすら何もしないように努めてきた。できる限り意味のあることをしないように、「何もしない」ことを徹底的に行ってきたのである。ま、主観的には、ということだけれども。

それでもGWのちょうど中日あたりに中津にお引っ越しを済ませたTodo O Mundoに行ってきた。東京より帰還中のシミズとニシカワにも声を掛けて早い時間帯からビールを呷る。ホタルイカやじゃがバターにウルメをかじっているうちに、いつのまにかシュワシュワなワインが目の前に注がれていて、それから白になったり赤になったりを繰り返してすっかり酔いが回る。ちょうどビールからシュワシュワな赤ワインにかわるタイミングでマルタニさん
もお店に来られて、そこらあたりからいつも通りに話がヒートアップする。何をしゃべったのか、またしゃべられたのかは正直なところあんまり覚えていないのだが、ただどこかのタイミングでぽつんと思い出したりはすると思うので、それはそれでよい。話した話題やテーマを時系列に並べることが出来なくたって全然かまわない。むしろ整列させることのできない話の方がこれから心の奥底で熟成されていい具合に沁み入ってくる。そんなもんだ。

しかしながらあの日以来、頭にこびりついているフレーズが一つある。マルタニさんをはじめ皆に言われた言葉なのだが、どうにも引っ掛かってとれなくて、忘れたくても忘れられないようにして意識の真ん中に居座っている感じである。とはいってもそんなに大層な感じではなく、また小難しい言葉でもなく、しかもこの度初めて言われたわけでもなかったりするのだけれど、そこまで意識に居座るというのはおそらく僕にとって図星だったということなんだと思う。僕自身がすでにそのように感じていたのだ。もっとそういう風に生きてみたいし、生きないとアカンよねって。

こうして書きながらに、すでにこの姿勢がその言葉通りではないことを証明しているので、なんだか複雑な気分ではある。頭では十分過ぎるほどにわかっているつもりでもカラダが言うことを聞かないことは往々にしてあるわけで、その状態が徐々に解けていきつつあるからこそそのことについて書けるようになったというものあるだろう。

どうやら僕はあの時から体制依存的に生きる決意をしたみたいである。まずは体制に溶け込むこと、それが為されてから自分の納得が得られるように生きてみようと、たぶん無意識的にそんな風に考えていたはずである。ラグビーというスポーツの特徴とも言えるかもしれない。いやいや、ラグビーだけに限らずスポーツの性格とも言えるかな。いや僕の性格だな、たぶん。集団スポーツ的な生き方をしてきた僕が選択した生き方であったと言うべきなのだ。後悔はしていないが、あまりに無知だったことはすっかりと認める。

でももうやめる、いや、やーめた。

スポーツのよさというものがあらゆる媒体を通じて喧伝されているけれど、私たちの身近で目にするそのほとんどがビジネスに取り込まれた嘘もんのスポーツ像である。勝てば官軍的な側面からしか語れないスポーツに関する物語はもう辟易としており、バラエティ番組によく出演している元選手は見ているだけで落胆する。現役時代のプレーに目を奪われたあの感動をどうしてくれんねんー、という気持ちにもなる。

スポーツとはそんなもんじゃないはずだ。何も社会のロールモデルにならなければならないなんて、堅苦しいことを言いたいのではない。できなかったことができるようになったときに感じる自らの身体への信頼とか、チームメイトとともに力を合わせて成し遂げたことの喜びとか、もっと身近で単純なところにスポーツの良さはあったはずなのに、いつの間にかアスリート礼賛的風潮が蔓延し、商業的に傾きつつある。だから、競技力の高い選手がチヤホヤされて、それが仲間同士の並列的なつながりを分断するようになる。お金に直結するような能力の涵養だけに特化していき、人間的な成長が後回しになっているのが今のスポーツの現状だろう。

こんな事を言い募る僕もかつてはアスリートだった。アスリートだったからこそわかることがあって、だから経験として培われた中で良かったことと悪かったことの分別はしっかりつけておかなくてはならないと思う。常に自分が感じたことの中でよかったことだけを必要以上に声高に話すのだけは避けたい。むしろ「あれはアカンやろ」と感じることをもっと積極的に語っていきたいと思う。それが多少自虐的になろうとも、である。

ようするにもっと言いたいことを感じたままに言っていったろやないかと、まあそういうことなのである。僕が立ち向かうべきなのは外ではなく中なのだ。

born to be wild」(決意表明)。