平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ラクロス交流戦の勝利とお散歩京都縦断。

先日のブログに書いていたラクロス交流戦は6-5で勝利を収めた。この試合は、僕が顧問になってから見た中でもっともデキのよい試合内容であった。

対戦相手の立命館大学は1部リーグに所属しているチーム。2部リーグに所属している神戸親和女子大学と比べると当然のように実力差があった。事前に対戦相手の試合をビデオ分析(スカウティング)していた彼女たちも、その差を十分に認識していたようである。試合前のウォーミングアップを兼ねた練習で選手それぞれの動きに固さが見られたのも、対戦相手のイメージ像が過剰に膨らんでいたからだろう。「相手が強い」という過度なイメージは大きなプレッシャーとなって降りかかり、パフォーマンスの発揮に少なからず影響を及ぼすことになる。

しかしながらこの「相手が強い」という先入観から生じるプレッシャーは、少し頭を使って考え方を整理すれば軽減できる。「とにかく自分たちのプレーをしよう」とか、「胸を借りるつもりで思いっきりやろう」とかの精神論的アドバイスは、いざ試合に向かう選手たちにとって慰めになることはあっても緊張を解きほぐすに至ることは少ないと、僕の経験は語っている。試合前の緊張感と真っ正面から向き合い、散々頭の中で考え方を整理した後になれば、こうした精神論的言明が心に馴染むこともあるが、今まさに緊張感と対峙している選手には右耳から左耳である。

緊張感を根底から解きほぐすには「納得」が必要だ。
「納得」するにはそれなりの理路、すなわち筋道が必要になってくる。

この試合はどう考えても立命館大にかかるプレッシャーの方が大きい。1部のチームが2部のチームに負けるなんてことはあってはならない。勝って当然の試合に負ければあからさまに格好が悪い。当然のように試合を見守るファンや他チームもそのような視線を投げかけるわけで、そうしたプレッシャーが重く肩にのしかかるのは言うまでもない。

対する我が神戸親和女子大は挑戦者の立場にある。
「負けてもともと、勝てばラッキー」という心境にいる。
さらに「1部昇格」を目指す我がチームにとっては、1部に所属するチームの実力を肌で感じることのできる貴重な機会でもある。
失うものは何もなく、負けたところで1部との差が体感できるという点からはむしろ得るものばかりの喜ばしい試合なのである。

このことをキャプテンと話をし、次いでみんなを集めて話をするとチーム全体の緊張感が少し和らいだように感じられた。いや、これまでの僕の経験からすれば必ず和らぐはずなのである(なんて)。

ここらへんの考えを整理して試合に臨めば緊張などするわけがないのだが、まだまだ大学生であり試合経験も乏しい彼女たちにとってはそう簡単に事は運ばない。言葉にすれば当たり前に感じられることも緊張に縛られている選手にとっては意識から外れている。だからこうした理路を適切な言葉で改めて提示することにはそれなりの意味がある。だから、ラクロス経験もなく競技に精通しているわけでもない僕にできることは、彼女たちに「納得」をもたらすようなこのような言葉を噛み砕いて話すことに尽くされるのである。

その話の効果があったかどうかは定かではないけれど、とにかくいい試合だった。インターセプト気味にこぼれ球を拾ったナベが積極的に空いたスペースに走り込み、ディフェンダーが寄った瞬間の絶妙なタイミングでエリカにパスを出してシュートをアシストしたシーンには、思わずガッツポーズをしてしまった。これまでにあらゆるところで書いたり言ったりしているように、パスというのは出す側と受ける側のイメージが一致しなければ成就しない。たとえイメージが一致しなくても繋がることは繋がるが、それは相手ディフェンスを揺さぶるほどの「美しいパス」にはならない。ディフェンス側が戸惑うような効果的なパスにはならないのである。先のシーンだけでなく、この試合ではあちらこちらで「美しいパス」が散見されたのである。

1点リードのまま向かえた試合終了間際の粘りあるディフェンスもよかった。「負けられない」というプライドをぶつけてきた立命館大の猛攻を凌ぎきったのは、相手の勢いに飲まれることが多かった昨年を思えば紛れもなく成長の証だと言えるだろう。よくぞ踏ん張った。「あの時はドキドキしっぱなしでしたよ!」と試合後に興奮気味に話す彼女たちの充実した顔が、少しだけ頼もしく見えたのは気のせいではない。

試合後の興奮冷めやらぬ雰囲気に包まれて、試合会場が大学時代によく試合をした宝ヶ池球技場ということも手伝って、なんだかやたらと気分が昂ぶった。試合前に彼女たちから誕生日プレゼントをもらったこともうれしかったけれど、見ていてワクワクするようなこんな試合をしてくれたこともとてもうれしかった。目標はもっと先にあるからあまり喜び過ぎないようにしようと、試合後のミーティングで確認していた通りはしゃぎ過ぎはよくないとは思うが、それでも喜ばしいときは思いっきり喜ばないと、ね。この日の試合で感じたような一体感を伴った昂揚感は、スポーツをしている人間にとっては何ものにも代え難く心地よいものだし、それを味わうがためにスポーツをしているのだか、今日は底抜けに喜ぶ時だろうと思う。

秘められた身体能力が発露した実感、
そして
たくさんの身体が同期したときの恍惚。
勝敗強弱などでは決して語れないスポーツの醍醐味はまさにこれ。

ラクロスお気楽コーチは34歳の誕生日にこの上なくいい試合を見させてもらいました。ホントにありがとう。サンバイザーも大切にかぶらせてもらいます。


さてさて、よい気分のままに宝ヶ池球技場を後にした僕は、少し歩きたくなって下鴨本通りを南に向かってブラブラと。流鏑馬神事で人だかりの下鴨神社を抜けて御所に向かい、繰り広げられたであろう数々の歴史を思い浮かべながら広大な敷地を横断する。丸太町通りを渡ってすぐのところにポツンとあったスペインバル【sala de estar】に立ち寄り、遅いランチをとったあとはそのまま富小路をひたすら南に歩く。町家を改造したイタリアンや洋風居酒屋などの今時の京都に目をやりつつ御池通まで歩くと、だんだん人気が多くなってきたことを窮屈に感じ始めたので、四条辺りをぶらつくつもりだった予定を取りやめ、少しペースアップして人混みをかき分けていそいそと阪急電車に乗り込んだのであった。

歩くことが何よりのリラックスになることを知ったとは言え、振り返ってみれば宝ヶ池から四条までを歩いたわけで、ランチの時と出町柳近くの鴨川沿いで休憩した以外はひたすら歩き続けたことに少し驚いている。翌日になっても膝や足首に痛みはないし、もちろん筋肉痛などない。歩くだけで筋肉痛になるわけないと思っていたからそのことには別に驚きもしないが、もしかすると足首や膝といった関節は痛むかもねと覚悟していただけに、まるで何事もなかったように手応えのない足腰には些かの驚きと安堵感がある。瞬発系からスタミナ系に、スポーツ的から武道的に、確実に僕の身体は変わりつつあるのだろう。特別に稽古をしているわけではないけれど、日常的な動きへの観察眼はいつ何時も持っているし、身体の違和感というシグナルへの解読はとりわけすすんで行っているから、おそらくはそのことの結果だろうとは思うのだけれど。

自らの身体への興味は、そのまま他者の身体への興味へと繋がる。そうした見方でいろいろな身体を眺めていると気付くことがたくさんある。ラクロス部員が一所懸命にボールを追う姿からも僕はたくさんのことを気付き、学んでいることだろう。それら気付いたことのほとんどを今はまだ言葉にできないでいるが、できないことに焦ることなく感性の従うまま「無意識」の中にどんどん取り込んでいこうと思う。そして、しばらくは無意識の中で熟成させておいて、どこかのタイミングで浮かび上がったムズムズ感を少しずつ少しずつ言葉で表現していってやろうと目論んでいる。