平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「共通感覚」。

共通感覚論』(中村雄二郎 岩波現代文庫)を読んでいる。まだ第1章も読み終えていないが、哲学書というのは「想像力を馳せながらのらりくらり読むもの」だと思っているので、ほどよいペースで進んでいるものと自覚している。

「臨床の知」という概念を知り、スポーツ科学の捉えなおしという作業が前に進むぞという手応えを得たことに続いて、「共通感覚」という概念がスポーツ教育の捉えなおしという作業を前に進める予感がしている。いや、確実に進めることになるだろう。その末席に身を置かせていただいている動感感覚研究会におけるキーワードの「身体知」に通ずる概念でもあって、今後の展開を想像してとても興奮している。

すごいことを考えている人が世の中にはたくさんいるのだ。こんな当たり前に当たり前なことに想像を働かせる気もなかったあの頃の僕を思い出せば、とてもとても幼く思えてきて赤面してしまう。ま、その時はその時で必死になって取り組んでたわけで、その頃があって今があるわけだから、逆にとても愛おしくて懐かしかったりもするっていうのが本音ではある。人の気持ちってそう簡単に割り切れるものではないわけで、ラグビー選手の寿命が60歳とかだったら確実に現役選手を選択していただろうしね~。

ま、そんなわけにはいかないのだけれども。

さて、ごく端的に言ってしまえば、いわゆる「共通感覚」とは、人間に備わっている諸感覚、たとえば視覚とか聴覚とかの五感も含めたあらゆる感覚の統合による総合的で全体的な感得力のこと。ラグビーにたとえるとすると、絶妙なパスを通しまくるセンターやタックルを受けながらのオフロードパスがうまいバックローなんかは、知ってか知らずかこの「共通感覚」を駆使していると考えられる。

ラグビーでは自分の後ろのいる味方にしかパスすることはできない。だから、パスをもらおうとする選手は声を出して自らの存在をボール保持者に知らしめようと努める。ボール保持者は後方から聴こえた声を判断材料の一つにし、また相手選手を引き付けるべく目などで間合いをはかり、背中全体で感じられる気配感みたいなものからパスを放るわけである。味方を目で確認してからのパスは、顔の向きやその動きで相手選手に悟られるので、相手を撹乱するような効果的なパスは原則的にノールックとなる。まさに諸感覚を前に後ろに向かって研ぎ澄ませているわけで、これこそ「共通感覚」ということになる。

この「共通感覚」は、何もスポーツ現場に限ったことではなく、私たちの生活場面においても散見される。というか人間として根源的な能力と断言しても過言ではないだろうと思われる。

たとえば「察する」ということ。人間関係において明確で鋭利な言葉をなるべく使わず、物腰の柔らかい言葉をやんわりと交わしながら相手の真意を探るときには「察する」という言葉があてはまる。一つの言葉や一つの何らかの動作に居着くことなく、ボワーンとした雰囲気で構えることによってしかわかりえない境地がそこにはあり、相手の気持ちを素早く察し、その場にふさわしい行動をとるにはまさに「共通感覚」という視点が必要となろう。人として成熟するということにも繋がっていく。

「共通感覚」に関することはあまり深入りを避けておくことにする。というのもまだ読み始めたばかりで細かな点を把握するまでには至っていないからである。アリストテレスのセンスス・コムーニスを源流とするコモン・センスと、そのコモン・センスの側面である「共通感覚」と「常識」との関係について、さらにはその「常識」という概念を構成する二つの相反する視点について、もう少し理解を深めてから述べてみることにする。

頭に入り、身体を通じて、言葉として出力される(もしくは体現できる)。この一連のプロセスによってしか到達し得ない境地がある。うん、そうに違いない。

それにしてもいつも感じることだが、読んでいる最中は「うんうん」と頷きながら理解できているように感じられても、いざこうして書きはじめるとまったくと言ってうまく書けない。言葉にするというのはまさに身体的な行為なのだろう。この点はラグビーで存分に味わった感覚とほとんど同じだ。あー、書くってことはしんどいし難しいものだ。でも楽しい。

さあ、帰ろう。