平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

勉強会を終えて。

昨夜の勉強会はとても刺激的な会であった。
神戸や大阪の大学で教員をされている方々が集まり、体育の現場で直面している問題について侃々諤々するのが会の趣旨である(と昨日、知った)。
昨夜は9人の先生方が顔を突き合わせての論議になったわけだが、現場経験も研究実績も豊富な先生方を前にして僕が話せるようなことは何もない。そんなことは重々承知しているにもかかわらず、ついことばが口をついて出てくるのはしゃべり好きな性格のせいである。飛び交う論議に耳を傾ける中で「そうそう!」と感じる内容には、ついことばをかぶせたくなってしまう。

裏を返せばそれだけ楽しくも刺激的な話題だったからなのだけれども。

体育の現場では、学生の運動能力が低下しているとの認識がある。
この認識は、体力テストの結果が落ちているというデータからの判断ではなく、あくまでも勉強会に参加された先生方が体育を教える現場で感じた経験からの判断である。
そうした現状を踏まえて、15コマの講義を終えた段階で、決して運動能力が高くはない学生にスポーツの楽しさを少しでも感じてもらい、生涯スポーツとしてその競技を楽しみたいと感じてもらえるまでになってほしい。
そのための指導方法をどのように工夫していけばよいのだろうか。

これがこの日の共通意識である。

つまりは、「できる人をもっとできる人に」というアスリート志向の学生に対する競技力向上のための厳しい指導ではなく、「できない人に上手くなるきっかけをつかんでもらう」という観点である。

こうしてことばにすると単純なことなのだけど、これを実践するとなると途端に難しくなるのは、体育に限らず現場で奮闘されている方ならお分かりいただけることだろうと思う。本人が持ち合わせていない概念や感覚を理解してもらうのは、けっして一筋縄ではいかない。たとえば、ラグビーでいえば、相手を交わそうとしてステップを踏む「タイミング」は単純なことばでは教えられない。また、ものすごい勢いで走ってくる相手選手にタックルするには相手の懐に入るために「一歩も二歩も踏み込む」のがコツなのだが、この「一歩も二歩も踏み込む」というコツを伝えるのはとても難しい。こうした感覚的なものは、本人が実際に経験することによってしか得ることはできない。

「本人が実際に経験することによってしか得ることができない」のだと考えると、教員がとるべき姿勢というのは自ずと決まってくる。それは、学生本人が「感覚的なもの」をつかむことができるように、「指導の仕方に工夫を凝らす」という姿勢である。あるいは、「感覚的なもの」に想像力が働くようなことば掛けをすることであり、そうしたことば掛けは必然的に詩的な表現や喩え話になるだろう。というか、なる。

と、いうような話を先生方が話されているのを聞いていて、とても清々しく感じたのは、アカデミックな体育という分野が「客観性」を過剰なまでに意識し、数字やデータによる根拠がなければ研究だと認められないというような「かたくなさ」をとても窮屈に感じていたからである。身体にかかわることは目に見える形で明確化することはできず、容易に断定してはいけないと考えている僕は、数字やデータを主要な根拠にすることをできるだけ避けようとしている。そうした考えを持つことでたとえメインストリームから外れることになろうとも、そこだけはどうしても譲ることができない。これまでのラグビー選手生活で経験したことと、ここ数年間の研究が密接に結び付いた上での「納得」であるだけに、それだけはできない。大概のことは「まあええか」と、流れに任せてしまう僕だけれど、こればかりは無理である。

そんな風に考えていたものだから、数字やデータに対する懐疑的なことばを勉強会のリーダーである先生の口から聞けたのは、なんだかとてもうれしかったのである。もちろんのことながらすべての数字やデータを否定するわけではないけれど(そういう欲望も心の奥には無きにしもあらずだが)、基本的な立ち位置がそこにあるというのは何とも心強い。なにより、「身体知」という視点から学生の上達、そして子どもの成長や発達を「みる」ことのできる体育の先生が増えることは、まことに望ましいことだと僕は思う。

という感じで昨夜は結局2時を過ぎるまでワイワイと話をしていた(聴いていた)。そのまま雑魚寝して今日は8時からラクロス練習をサポートし、午後はそのまま学校に残り研究室でひたすらに文献を読み耽って、今になる。
昨夜の今日で研究意欲が高まっていたので「あっ!」というまに時が過ぎていた。
休みなのに休みじゃないような一日だけれど、精神的にすっかりとのんびりしたなあという気持ちでいられるのは、いつのまにか研究者体質になったからなのだろう。新しいことを「知る」のは楽しい。楽し過ぎる。

ちなみに『神の発明』(中沢新一著、講談社選書メチエ)を本日読了した。カイエソバージュシリーズも残すところあと1冊を残すのみになった。
「精神の考古学」という旅は本当におもしろい。
人類にとっての表現活動の起源はラスコー洞窟の色鮮やかな壁画である。
ニューロン組織の組み替えによって流動的知性を獲得した人間の脳は神という概念を発明し、スピリット世界から多神教的世界を経て一神教的世界を創り出す。その世界観のもとに今や全世界に広がりつつある資本主義経済社会が誕生したわけである。そして、現在、世界中のあちらこちらで行われている近代スポーツは、資本主義経済社会とは切っても切り離すことはできない。

このあたりをじっくりと論じていけば面白いことになりそうな予感はしているが、論じるにはまだまだ時間がかかる。でも、こうして人類学的な意識の射程であれこれと考えていると、近代スポーツって歴史も浅いし、身体について語られている文脈も科学的な方向にどんどん傾いていっている現状からは「なんだかなあ」という気持ちも湧いてくる。勝利至上に過ぎると選手が幼児化するし、商業的に過ぎると選手は商品化するわけで、「ああ、もう」、である。

とにもかくにも、もっと研究しよう。