平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

2008年度大学祭初日。

今日は大学祭1日目。あいにくの雨模様でも学生たちが発するエネルギーはそれを凌駕するほどで、学内には何とも言いようのない熱気に包まれている。今年の春に大学に入って驚いたのは1回生の時から演習(ゼミ)があること。ついこの前まで楕円球を追っかけていた僕がゼミを担当することになって、なんとも滑稽なものだと入学後すぐには感じていた。学籍番号順で振り分けられるいわゆる基礎ゼミで僕が受け持っている学生たちがおでんの出店をするというので、今日も大学に来ているというわけである。

昼過ぎになって、精力的におでんを売っている学生たちの様子を見に行き、はたまた焼きそばを焼きまくるラクロスの学生たちの様子も見て、ステージで行われたダンス大会(?)を見て盛り上がったりもしていた。学生たちが楽しそうに活動する姿を見てるとたくさんの元気がもらえる。という自らの言い回しを客観的に読み直して、すでに先生という職業にどっぷり馴染みつつあることに「ハッ」と気づかされもして「ホッ」とする。もしかすると、大学院に入って教育の勉強&研究を始めるもっともっと以前から、実のところ僕は先生的な仕事をしたかったのかもしれないなと、そう錯覚してしまうほどに今の生活に馴染んでいる気がするのは決して気のせいではないはずだ(と思う)。

もちろん楽しいことばかりではなくて、どちらかといえば引っかかることばかりではある。差し迫るもろもろの仕事にはいちいち戸惑ってばかりいるし、だからと言って立ち止まる暇もないから見切り発車的な決断の連続を繰り返すわけであって、だからときには「ふぅー」と大きなため息をつかないと自分が保てなくなりそうになる。でもね、これって結局のところは「身体を使う」ということなのだ。何もグラウンドの上でラグビーボールを追いかけることだけが「身体を使う」わけではなくて、頭の中であれこれと理論を組み合わせることと区別する意味においては、日常的な動きすべてで私たちは「身体を使っている」のである。不意に質されたことに絶妙なタイミングでその場に正しきことばを紡ぐのは、まさに身体を使うことの本質そのものとなる。その場その場に応じての対応を試みるというのは非中枢的な身体運用の賜物で、あらかじめ頭の中で用意されていた筋書き通りに話したり動いたりするのは、本当の意味での「身体を使う」ということなのではない。じゃあいったいどういうことなんだと追及されても困るのだけれど、まさしくそうなのだ。

「身体」ということばの中にはもちろん頭(頭脳)も含まれている。だから「身体を使う」という表現にはもちろんのことながら思考をするという行為も含まれることになる。だとすれば、当然のことながら声を出す、呼吸をする、耳を澄ます、匂いを嗅ぐ、味わうといった感覚的な行為だって「身体を使う」ってことだ。全身のセンサーをフル稼働させることが「身体を使う」であるという解釈のもとでは、いささか出しゃばりな機関であり、そもそもの性格が自己顕示欲の塊みたいな脳ミソをどれだけおとなしくさせるかにかかっている。たとえばおいしい料理を口にした時に、どうしても講釈を垂れようと出しゃばってくる脳ミソを「まあまあ」となだめすかして、ただ舌と鼻と目だけにおいしさを預けてしまうような振る舞い。そうした振る舞いこそが「身体を使う」ということなのだと思う。

まだ語彙や知識に乏しい学生たちはその分だけ直感や感性が鋭い。だから、何気なく発せられたことばにこちらが思わず「ハッ」と気づかされることも多く、その度に自らが脳ミソに頼って身体を使っていることに気づく。「ああ、頭でっかちになってたよな」って感じで。しかしながら手放しで彼女たちの直感や感性を尊重するのはおかしい話で、これほどまでに情報が乱れ飛ぶ現代社会を生きていくためには、語彙や知識が乏しければ心もカラダも傷だらけになることから免れない。なんとかして直感や感性と語彙や知識のバランスをとるような教育をと考えているのだけれど、まあこれはおそらく一生かかっても完全に達成できないほど気の遠くなるような考えだろう。バランスをとる、なんてことに明確なゴールなんてないのだから。まあ、その分だけ目指し甲斐はあるから、いっちょやったろうとは思っているが。

さてさて、また明日も楽しもう。