平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「うん?」という違和感。

どうやら体調を崩しかけたところで何とか持ち堪えたようである。
急に気温が下がったせいかここ1週間ほどは重い身体を引きずっていた。
目は充血するし腰から肩にかけては怠さもあって、息も絶え絶えな心模様のままに何とか過ごしていたのである。そんな弱々しい身体に追い打ちを掛けるように、週末は2日続けての入試業務でたくさんの生徒との面接を行ったもんだから、さすがに昨日は背筋に悪寒を感じたままのバタンキューで、このまま本格的な風邪を引くかもなあと思っていたところが何とか踏みとどまったみたいでひとまずは「ホッ」なのだった。まだまだ油断は大敵なのであるが、今の状態だともう大丈夫なような感じだ。ふう。

というわけなので今日は家でゴロゴロと過ごし、昼過ぎにスーパーに買い物に出かけた以外はずっと屋根の下にいた。買い込んだ野菜を鍋に放り込んで食べているとそれだけで自分の身体が澄んでいくような気がする。素材そのままの食事だからという味気ない見立てからそう感じるのではなくて、ただ単に身体がスムースに楽をしているというか何というか。「ただの気のせいですよ」という突っ込みに耳を貸すことができないのは、僕としてはこれを気のせいなどと片付けずに一つの感覚として認識しておきたいからだ。

何かの拍子に感じた「うん?」という違和感はとても大切である。そうした「うん?」はことばによって立ち上がった現象ではなく、感覚そのままで意識上に姿を現した「何らかの現象」だからである。当たり前だが、普段の生活の中で私たちはたくさんのことを経験している。いや、生活そのものが経験である。生活そのものとしての経験のほとんどは無意識の中に蓄えられていて、朝目覚めてから歯を磨いて顔を洗ってヒゲを剃って着替えて出発するまではほぼ自動的に身体を動かしていることが何よりの証左である。沸騰する鍋に誤って手を触れてしまって「あつっ!」と手を引っ込めたり、つまずいたときに転けまいと手や足をつくという動作は、あくまでも無意識の中に生じている。ということは、何気なく口にすることばや文脈を通じての話すクセなどを含めての「話す」も、どこかへ移動するときの手段である「歩く」も、意識することなく勝手に行っていることになるわけで、身体で起こる動きという動きを支えるすべての源が無意識という領域に埋まっているとも言える。

こういった無意識的な動きには手応えというものがない。ウエイトトレーニングでバーベルを担いているときに筋肉の収縮を感じたときのようなはっきりとした力感がない。たとえば考えことをしながら歩くことができるのも、「歩く」という行為に手応えがないからである。引っ越し屋さんや工事現場で働く人たちは、いかに楽をして身体を動かすかに心を砕いているわけで、荷物を持ち上げたりするときにはいかに手応えを感じないような持ち方を試みているはずである。考えてみると当然のことだが、自分が当たり前にできることには手応えなどあるはずがないのである。

この手応えというのは滑らかな動きの中に割って入ってくるものだ。流れを分断する不自然さを感じた結果が手応えであり、手応えが生じた途端に身体のバランスが崩れる。崩れたバランスを取り戻そうとあちこちで修復作用が働き出すことで身体は変化していく。

いい流れの中に身体があるときに感じる手応えは悪玉であるが、悪い流れの中に身体があるときに感じる手応えは善玉である。つまり手応えは必ずしもダメなものではなくて、いわば変化へのきっかけになり得るものであるということだ。

無意識的な動きが意識にせり出してきて自分自身の心が揺さぶられたときの覚知が「うん?」であると僕は理解している。「うん?なんかおかしいぞ」といった前振りもなく突然に降ってきた紛れもなく不思議なあの感覚は、僕自身を確実に変化へと導いてくれる「思考の種」なのである。認識と現実が行きつ戻りつする中で獲得される現場感覚というか、頭とカラダのズレというか、言わば主体と世界のズレを感じた瞬間なわけだから、そこから思考の枝葉が伸びていくのは必然的なことだろうと思う。

病み上がりかけの頭で考えてみたけれどやっぱり冴えない。動きというものを思考するのはとても難しい。そもそもことばと感覚は相容れないというところを踏まえた上で開始する思考なだけに、難解なのははじめから承知なのではあるが、それにしても難しい。でもまあ生きていく上で大切なことのほとんどには明確な解答など存在しないわけであり、しかしだからといって解答を探すことを放棄するわけにもいかず、「これがおそらく解答だろう」という目星をつけることからは逃げられないのだけれど、僕がつけた目星というのが「動きを思考する」すなわち「ことばと感覚」の問題なわけだから、どれだけ難しくても進んでいくほかない。

ちょっとシリアスにこんなことを言いつつも、
実のところはその難しさを楽しむ僕がいるのだけれども。

さて、また明日から大学だ。講義だ。研究だ。もう寝よう。