平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

陸上男子100mの光と陰。

それにしてもウサイン・ボルトの走りは凄かった。
決勝であれほどまでの大差で勝利した光景を目の当たりにした今だから言える、という部分もなきにしもあらずだけれど、明らかに予選のときから何とも言えない大物感を漂わせていた。
気付いた人は気付いただろうし、
感じていた人は感じていただろうと思われる。

出場選手の中には、オリンピックという大舞台からくるプレッシャーをはね除けようと、無理から強がってみせる選手もいる。
「金メダルしかいりません」などと意識的に大きなことを口にしてみたり、
これみよがしにオーバーアクションしたり。
自分の実力を出せるかどうか、そして勝てるかどうか、という不安を覆い隠そうとしてつい表れてしまうこうした仕草を見て、僕はどこか微笑ましくも感じる。
不安や恐怖を抱え込んだときの言動やなあと、
思わず遠い過去の記憶に準えて共感してしまうのである。

ボルトは、予選の時からスタートする前もスタートしてからも
「リラックスし過ぎちゃうのん」
というくらいのゆとりがあった。
一人だけ遊び感覚で走ってるような感じがした。
それは不安や恐怖を押し殺そうとしてのものではなくて、
ただ純粋なものとしての「余裕」だと僕は直観した。

決勝でも、スタートする前に名前が呼ばれたと同時にカメラに向かってにこやかな表情で語りかけるような仕草を見せ、そのあとは矢を射るようなポーズを決めていた。それが、妙に滑らかで自然な感じがしたのは僕だけではないはずである。
もちろん真剣さの欠如として捉えた方々もいたことだろうとは思うけれど。

対照的に、アサファ・パウエルは決勝に近づけば近づくほどに
表情が強張っていったように見受けられた。

僕は、以前にNHKでの特集を見たときからすっかりパウエルのファンになっていたので、「大舞台に弱い」と揶揄されているこの前世界記録保持者の巻き返しを密かに期待していた。戦前に男子100mはタイソン・ゲイを含めた3強の対決だと盛り上がっていた頃から、「勝ってくれいー」という気持ちを抱いていたのだ。
しかしながら、予選の走りを見る限りその期待は儚くも消えつつあった。
ボルトの圧倒的な走りとの比較においてもそうだし、画面を通してこちらにも伝わってきそうなほどに過度な緊張感からも、そう感じずにはいられなかった。

ただ不思議なのは、そうして不安と緊張の渦に巻き込まれていくパウエルの姿を見ていると、以前にも増してパウエルを好きになっていく自分がいるのである。
なんだろう、ずっとこれからも戦い振りを見ていきたいなという気持ちが湧いてくるというか何というか。「人間くさいから」という当たり障りのない理由に落ち着かせるのがもったいないくらいの親近感を、どうしてもパウエルには感じる。

さて、ボルトである。

世界記録を樹立しての金メダル奪取となるわけだが、なんとゴール前は完全に力を抜いて駆け抜けたのであった。
両手を開いて観客に向かって喜びを表現したかと思えば、このオレが一番だと言わんばかりにステップを踏むかのような走りでフィニッシュを決めた。

凄すぎるよな、マジで。

「最後まで全速力で走らずに世界記録を樹立した」という凄さを各メディアは挙って報道していて、もちろんそうした数値的な凄さもあるのだけれども、それよりも僕が超絶的な何かを感じたのはオリンピック決勝の大舞台であれほどまでにおちゃらけられる精神構造にある。

世界的なオリンピックの位置付けやメディアへの対応、陸上選手としてのこれからの人生などの、考えておかなければならないとされる「常識的なこと」が少しでも脳裏を過ぎれば、最後まで真面目に走り抜けておくことがどれほど無難なことであるかは一目瞭然のはずだ。力を抜いて走り抜けることがどれほどのリスクを負うかなんて、考えなくてもわかることである。ちなみに、翌日のサンデーモーニングではバーチャル出演中の張本が「勝負は最後までわからないから走りきらないとアカン!」と「渇」を入れていて、まあ彼が言いそうなことだよなと微笑ましくもあったのだけれど。

それでもボルトは“そうしなかった”。

という表現は全くもって正確ではなくて、「する」とか「しない」とかの選択肢を持つことがなかった。つまり、そもそもそうした考え自体を持たなかったのである。世界記録を樹立するとか、勝利するとどうなるとかなど「常識的なこと」なんて頭の中にはなかったのだ。そうであるがゆえにあれほどまでにリラックスできたわけであり、脳ミソであれこれを考えるまでもなくただ走るという動作を身体に任せっきりにしたことが、あれほど超絶的なパフォーマンスに繋がったのだろうと、思うのである。

スタートの合図が聞こえたら走り出し、そこからは世界記録樹立することなど頭にはなくてただ横で走っている面々に勝つために身体を動かした。一歩、一歩を確実に踏み出していると、ゴール手前に差し掛かった辺りで自らの勝利を確信することになり、その瞬間に勝手に身体が喜んでしまって咄嗟にその喜びを表現してしまった。それが、あのゴールだったのだと僕は思う。

あらゆる情報を脳ミソで処理することなく、身体の赴くままに走ってみせたボルトのパフォーマンスは、とても開放的で心地が良かった。その心地よさはテレビ越しに見ているこちら側の身体が感応するくらいに感染力がある。この感染力こそがスポーツの醍醐味だよなあと、改めて実感した次第である。

ボルトに比べて「常識的なこと」に囚われていたであろうと思われるパウエルにも感染力はある。彼からは、「常識的なこと」にのみ込まれないようにと踏ん張る姿が伝わってきた。困難を受け止めてそれを乗り越えようと立ち向かう姿を描写するのもまた、スポーツのオモシロさだろうと思う。

ボルトのパフォーマンスには、底知れぬ強烈な憧れを抱いた。
パウエルには、おこがましくも自分自身を重ねることで共感した。

いや、とにかく男子100mはオモローかった。

ちなみに先ほど男子200mの1次予選を見た。
どうやらボルトは100mよりも200mの方に力を入れているらしい。
200mで金メダルを取ることの方に重きを置いている、という心の構えは彼にとって確実にプレッシャーになると思われる。さらには「カール・ルイス以来24年ぶりの短距離2冠」というプレッシャーも降りかかってくるだろう。それが走りにどのような影響を及ぼすのだろうかを想像してみれば、100mほどの圧勝には繋がらないことも十分に予想される。

男子200mのボルトの走りからは目が離せない!