平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「学ぶ」ってこういうことなんだよな。

底抜けにいい天気である。昨日から今日にかけてはすこぶる温かく、心もカラダもあまりにほっこりとしてしまって表情筋がほどけるような感じだ。気を許せばすぐに「締まりのない顔」になってしまう。

そんなほっこり気分なものだから、研究室にいながら何も手につかないでいる。
来週の講義の準備をしようとしてみても、気持ちだけが先走ってしまってカラダがついてこない。やらなきゃならないし、やりたくもあるのに、頭にはぜんぜん入ってこない。そして、その状態を「まあ慌てなくてもいいか」と心は意に介さない。

困ったものである。

そんな腑抜けな感じから抜け出そうと、ひとまずブログでも書いてみるかと思い立ったわけであるが、これまた何を書くかという内容すら浮かんでこないから、こうしてひたすらダラダラと書き連ねる羽目になってしまった(いや、このブログはいつもこんな感じにダラダラしてるよな。つーわけで、今日も遠慮なくダラダラと書いてみることにするか)。

と、そんな風に書き始めてみたら、そういえば今日の内田樹先生のブログはいつも以上にグッときたぞ、ということを思い出した。

大学教員になってからというもの、常に頭にあるのは「学びとはどういうことなのか」という問いである。その問いには必然的に「教育とは何か」という問いも付随する。たくさんの学者が「学ぶのをやめた人間は教育者と呼ばない」的なフレーズを語っているとおり、教える立場にいる人間は今まさに学びの渦に巻き込まれていなければならない。自らが学んでいる、学び続けているからこそ、その姿勢や熱を感じた学生が学びのプロセスへと歩みを進める。そうした一連の現象を、当事者ではない立場の人間から見て「教育」と称しているのだろう。

だから教育は、パッケージングされた教えるべき知識やスキルが先生から学生に手渡されるようなイメージではなく、先生と学生との関係性のうねりの中で生成されていくようなものではないかと想像する。そのうねりの中には「教える」があるのではなく、あらゆる形態をとった「学び」が渦巻いているのではないか。学生の「学び」がそのまま先生の「学び」につながる空間というかなんというか。それぞれの立場で起こり得る色とりどりの「学び」の集合体が教育現場と呼べるのではないかと。

教育現場に身を投じる前と後で大きく価値観が変わったのはこの点である。
「教えなければならない」との意気込みが沈静化し、「学びたい」という意欲が亢進しつつある自分に、教育現場に身を投じてまだ間もないながらも青二才は気づいたのである。

で、今日の内田先生のブログには「学び」の比喩について書かれてあった。
___________________
自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。
これはすぐれた「学び」の比喩である。
このキャンパスにいる限り、感覚をざわつかせるような不快な刺激はほとんどない。
それは自分の心身の感度をどこまで敏感にしてもよいということである。自己防衛の「鎧」を解除してよいということである。
感度を上げれば上げるだけ五感は多くの快楽を享受することができる。
そんな環境に現代人はほとんど身を置く機会がないのである。
「心身の感度を上げる」ということは「学び」という営みの核心にあり、その前提をなす構えである。それを可能にする場所であるかどうかということが学校にとって死活的に重要であると私は思う。
___________________

新入生オリエンテーションで先生が学生に送った言葉である。
邪悪なものを含めた様々なノイズが入り乱れるところで「心身の感度を上げ」てしまうと、心もカラダも疲弊する。だから、そういった場所では自己防衛の「鎧」を身にまとって自らを守らざるをえない。その場にふさわしい役割を演じることを優先するか、もしくは徹底的に杓子定規な態度を示して、やり過ごすことになる。現代社会に生きる人たちは長らくの社会生活の果てにそうした術を身につける。

しかしながら、そうして「鎧」の中に閉じこもっていてはせっかくの「学び」の機会をもやり過ごすことにもなる。「私」の中から一歩も出ないままでは、いつまでたっても「私」は「私」のままである。他者からの呼びかけを頑なに退けてばかりいては成長するはずもない。「学び」の始まりは、わからないことの出現に「うん?」と興味を傾けることに他ならず、「私」ならざるもの、すなわち未知のもの(=わからないもの)に積極的に興味関心を示すことだからである。身の回りに散らばっている言葉や習慣や経験に対して、心身を開けっ広げにしておくこと、それこそが「学び」という営みの核心にある。

だから学校は「心身の感度を上げ」てもよい場所でなくてはならないのである。このテーゼから今の僕にできうることは、受け持つ講義や実技でそのような雰囲気をつくることであろう。なかなか困難であるけれど、挑戦しがいはある。頑張ってみよう。

そして次の文章。
____________________
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
なんでも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
_____________________

この部分だけを読むと、そんなんできるわけがないし、何を言っているのだと嘲笑気味に笑う人もいるだろうと思う。事実、先生もそのように書いている。
しかし、このあとの文章を読めばこの3つの能力を優先的に涵養させることがいかに大切であるかが、ストンと腑に落ちる。

_____________________
どこの世界に「なんでも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「なんでも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。

「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。

同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
_____________________

当事者の体感としてあるのが「なんでも食える、どこでも寝られる、だれとでも友だちになれる」ということで、当の本人がそのように感じることができるための言葉としてある。そして、本人が「なんでも食える、どこでも寝られる、だれとでも友だちになれる」と強く感じていられる現象そのものについて、俯瞰的な視点から先生は説明されている。現象を学者的立場から俯瞰するかのような描写にとどまることなく、あくまでも当事者が感じている諸感覚から出発し、その感覚から乖離することなく描写されていることに、思わずため息の出るほどに深い共感を得てしまうのである。

感覚に訴えかけてくるような文章に思わず顔がにやける。
まっとうな言葉を読めば確実に生きる意欲が湧いてくる。

「うんうん、なるほど!」と目を輝かせながらこのブログを読んだ僕は、プリントアウトしてホッチキスで閉じてファイルに閉じた。この内容をいつか僕も学生の心に伝わるような言葉で語れるようになるまで、何度も読み返そうと思っている。