平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『20世紀少年』を大人買いする。

講義初回のガイダンスが一通り終了。

今年度は週に6コマ。昨年度よりもコマ数が増えたので準備が大変ではある。

でもそれよりも大変なのは、やはり顔と名前を覚えること。

自分の名前が覚えられていないときの学生のリアクションは心にこたえる。

だからなるべく早く記憶しようと試みるものの、一度にたくさんの名前を覚えることはなかなか難しい。講義の合間や終わったあとなんかに世間話をした学生は、意識せずともすんなり覚えられたりもするが、そんなしょっちゅう世間話ができる機会も少ないから、できるだけ出席のときに顔と名前を一致させようと努めている。

それでも覚えが悪いのだけれど。

ま、でもまだ始まって1週間だ。ぼちぼちといこう。

いずれ買おう買おうと企んでいて、なかなかそのタイミングがみつからずに右往左往していたが、ついに購入してしまった。

つい先日、『20世紀少年』を大人買い。そして瞬く間に読了。

大学生の頃、寮に住んでいた後輩の部屋で乱雑に積まれていた『MONSTER』で浦沢直樹にハマった。まだ会社勤めの頃の昼食時によく行く喫茶店に置いてあった『MASTERキートン』は、まさに貪り読んだ。そして「NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」で浦沢直樹の素顔を垣間見て、「かっちょええ!」とすっかりファンになった。この番組は今でもハードディスクの中にしっかりと収まっていて、たまに見返してもいる。あえて言うまでもなくもちのロンで『プルートウ』は本棚にある。

なのに『20世紀少年』だけは読んでなかった。

なぜなのかはよくわからないけれど、とにかく読んでなかったのである。

興味はあったけれど、連載しているのを横目でチラチラと意識してはいたけれど、読んではいなかった。とにかく不思議だ。

改めて読み返してみると、その昔、4巻くらいまでは読んでいたみたいで、そこらあたりで読むのをやめたというか、なんというか、まあそういうことだ。

微かな記憶を辿れば、連載を追っかけるのをやめてしばらくたってから、気がつけば物語がかなり進んでいたので、こうなったらまとめて一気に読むことにしようと決めた。ような気がする。

で、昨年のいつ頃かに購買意欲が駆り立てられた時期があったのだけど、その頃は映画版『20世紀少年』の広告や宣伝があちこちに散らばっていた。だから買うのを思いとどまった。僕が買うのは社会で持ち上げられたからではないんだ、その昔から浦沢直樹の描く漫画が好きだったんだという、僕のちっぽけなこだわりが、『20世紀少年』ムード一色の流れの中で購入するのを躊躇わせたのである。あの盛り上がりの真っ最中に、これ見よがしに店頭に並んでいる『20世紀少年』を手に取ることは僕にはどうしてもできなかった。

20世紀少年』、とにかく不思議な漫画である。

読み進めれば進めるほどに現実と空想の境が曖昧になってしまう。作り話のはずなのにどこか現実めいた雰囲気を漂わせていて、これまで生きてきた中での自らの経験において似たようなエピソードがふと思い出されたりもする。極めてSFな世界のはずが、実のところ現在の社会も同じような構造なんだろうなという予感を抱かせるし、そのあたりでドロリとした重さを醸し出してもいる。友だちどうしの入り組んだ物語の中で、一つのシンプルなストーリーが丁寧に編み込まれていて、まさに浦沢ワールドである。

偉大な音楽や絵画には説明が不要であるように、『20世紀少年』の内容について僕はこれ以上あれこれと言葉を継ぎ足したくないと直感している。たぶん『20世紀少年』は一つの芸術である。醤油や塩をかけたり、特製ソースをたっぷりかけるのではなく、そのままの味を堪能すべきなのだ。

だから浦沢直樹は芸術家である。『スラムダンク』『バガボンド』の井上雄彦にしてもそうだし、宮崎駿だってそうだと僕は思っている。

僕の中に芸術というものの定義があって、これは中沢新一氏がどこかに書かれていたフレーズなのだけれども、「高次元の成り立ちである無意識を、社会の表面に引き出してくる技術の一つに『芸術』がある」と氏は述べている。なんだかぼんやりとしか認識されない無意識には(だって無意識なんだから、はっきりと意識できた時点で無意識ではなくなるわけで)、何かを介さない限り触れることができない。たとえばルーティンを通して、言葉を通して、音楽を通して、筆を通して。

20世紀少年』が芸術である、というか浦沢直樹を芸術家だとしたのは、作品の向こう側、あたり一面に広がる「モヤモヤとした何ものか」の存在を感じたからである。それはいわゆる「高次元の成り立ちである無意識」であり、それは浦沢氏自身の考えや想いが形づくる無意識でもある。それについつい感応してしまった。だから、内容についてあの場面はどうだこうだと書くのはなんだかおこがましくて気が引けるのである。とか言いつつも、いずれは調子に乗ってダラダラと書いてしまうかもしれないとしても、今はまだ時期尚早であり、何度も読み返す中で、また他の書物を読んだり実生活での経験を経ることで朧気ながらも輪郭が形づくられていくものだろうと思うから、今はまだ書かないし書けない。いや、書くのがもったいない。というか今の段階で軽々しい言葉にはしたくない。うん、たぶんこの表現が今の僕の心境を一番よく表しているように感じる。

相変わらずややこしくてすまない。

とにかくオモシロいということなのである。

最後に業務連絡を。

携帯電話が故障しました。

もう既に修理は完了しているのですが、データはすっかりと消し飛びました。

幸いなことに、昨年2月までのデータは以前使っていた携帯電話に残っていたので転送しましたが、それ以降、新たに連絡先を教えて下さった方々の分は闇の中です。お心当たりの方は連絡していただけますよう、お願いいたします。