平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「スポーツを語る言葉」身体観測第127回目。

 ラグビーW杯が開催中である。各国の真剣勝負に思わず拳を握りしめるほどの興奮を味わいながら、テレビ画面にかじりついている。ラグビーは面白い。むしろ現役を退いてからの方が強く感じる。思い返せば、現役時はここまで前のめりになって試合を見ることはなかった。後に対戦するチームの試合を分析的な視点から見ることはあっても、ゲームを楽しむためだけに見ることは少なかったように思う。あまりに秀逸なプレーを目の当たりにすれば自らの至らなさが浮き彫りになる。これはもしかすると競争的環境に身を置く者としての習性かもしれない。


 ラグビー経験者のすべてがそうだとは言い切れないが、少なくとも僕自身は選手時代と引退後では、ラグビーから感じられる面白さは異なる。この違いについて今はまだうまく説明できそうにないが、ただ一つ思い当たるのは「言葉」である。言葉と感覚は相容れない。感覚的に動かざるを得ないグラウンド内では、言葉は時にパフォーマンスを妨げる。情況に応じて動き続けなければならない選手は、だから言語化には無意識的な抵抗が働く。


 引退後に選手時代を振り返った時、自らの経験が意外にも言葉にならないことに気がついた。この事態に焦りを隠せず、それこそありったけの語彙で感覚的に身に付いているはずの事象をひとつひとつ言語化していった。すると選手時代とは異なる境地が開けてきた。そこには今まで一度も見たことのないラグビーの姿があった。


 スポーツ選手は現役が終わってもやるべきことがある。それは経験を言語化すること。すべてを言葉に置き換えることはできないにしても、せめて「縁取る・象る」ことはできる。スポーツを語る言葉をふくよかにする。これが、このコラムを通じて僕がしたかったことである。長らくのご愛読、本当にありがとうございました。


<11/09/20毎日新聞掲載分>