平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

エピソードこそ、その人となりを物語る。

今年度初めての「出前講義」を仰せつかる。以前にも書いたけれど、「出前講義」というのは高校側からの要望で大学の先生が講義をするというもので、高校生にとっての進路ガイダンス的な意味合いで今では広く行われている。仲介する業者が高校からの要望を汲み、幼児教育、体育、芸術、栄養、看護、美容などの分野ごとに各大学や専門学校に講師を依頼している。

今回の講義のテーマは「分野別面接指導」。体育系の学部・学科に入るために面接の際にはどのようなことに気をつけたらいいのかを話して欲しい、ということである。

(えっ?僕が面接指導をするん?)ってな気持ちは、明日に出前講義を控えた今日となっても拭い去れないのだけれども、引き受けた以上はやるしかない。ラグビー的人生を突っ走ってきた僕から面接指導を受ける生徒の気持ちを思えばいささか気の毒な感じもするけれど、仕方がない。生徒さんたちにはこれもご縁だと思って辛抱してもらうことにして、はりきってやることにする。

というわけで、ここからは明日話す内容を整理するために「面接」についてのあれこれを、思考しながら書き殴ってみたい(殴られたくない人はこの先はご遠慮下さい)。

まずは自分のときはどうだったのかを振り返ってみる。そしたら、これまでの人生でほとんど「面接」を経験していないことに気がついた。中学受験は試験のみ。高校、大学は付属校の特権を生かして無試験で入学。就職のときも、ラグビー選手としてそれなりの評価をしていただいたおかげで、オファーをいただいた数社から選ぶだけであった。入社にあたっては一応面接をしたけれど内容は至って形式的なもので、合否が決せられるような緊張感などない和やかなムードであった。

ふーん、どうやら僕は「面接」というものが醸し出すシビアな空気を知らないようである。つまりのところ「面接」を本質的に経験していない。したがって、面接官を前にしたときの緊張感などは知るよしもないし、「こう話せばいいんとちゃうかあ」というイメージなど到底浮かばない。

さあどうしたものか。

自らを振り返れば振り返るほどに何を話せばいいのかわからなくなってくるから、振り返り作業はこの辺で打ち切り。だってそんな経験がないわけだから仕方ねーじゃん。だからといって、本屋に足を運んで面接マニュアル的な書籍を物色するのは気が引ける。とってつけたようなマニュアル話なんて聴く方も話す方も退屈極まりないからである。

というわけで、ここからは目一杯に想像力を働かせて考えてみることにする。

高校生にとっての「面接」はいわゆる入学試験である。志望する大学に入学することを目的に「面接」を受けるわけである。それはつまり、自分という人間がどういう人間であるかを面接官に伝える必要があるということである。「等身大の自分を伝えること」が求められるわけで、「優等生的に着飾った自分をアピールすること」ではない。ここのところが肝であるように僕には思われる。

煌びやかに着飾れば場合によっては合格をいただけることもあるかもしれない。だけど、人を見る目がない人間が面接官を務める大学に入学することが幸せなことだろうかを考えてみると、たぶんそんなことはないだろう。本来の自分以上に着飾ることに長けた人間がたくさん集まっている大学を想像してみればそれは一目瞭然である。

また、着飾ることで面接をクリアしたという経験は、その人の人生に大きな爪痕を残すことにもなりかねない。取り繕うことを覚えてしまえば、また同じような状況を向かえたときに、同じような仕方で自分自身を取り繕う可能性は高い。そうした経験を積み重ねた人物を想像してみると、僕はあまり心地よい気がしない。それでもまずは入学をと考える人もいるかもしれないが、僕はそうは考えられないのである。

昨年度、入試業務に関わる中で幾度か面接官を経験させてもらったが、その時に感じたのはちょっとしたうんざり感であった。皆が皆、同じような言葉を口にするからである。「貴校は」という枕で大学のよさを並び立て、これまでの自らの経験をこれ見よがしに美化し、明確な将来像をはっきりと語る。中にはどんな質問をしても暗記してきた内容でオチをつける生徒もいて、悲しくなることもあった。

誤解されては困るのだけれど、試験を受けに来た彼女たちを批判しているのではない。おそらく彼女たちはマニュアル的な面接指導が受けているだけだと推察される。こうして書きながら僕自身には「批判している」という意識はないけれど、強いて挙げるとすれば、僕は形式だけの面接指導に終始する制度そのものを批判しているのだろうと思われる。

確かに、志望動機とか、なぜここの大学でなくてはならないのかとか、自分の性格や特徴とか、将来就きたい職業とか、事前に言語化しておいた方がよいことはある。面接官がこうしたことを訊ねたときにもしも言葉に詰まるようなことがあれば、事前の準備が疎かであるという判断が下されかねないからである。だから、ここに挙げた内容のことは最低限のこととして、面接を受ける前に考えておくべきだと言える。でもその限りでは十分とは言えない。事前に準備しておくべき内容が言えるか言えないというだけでは、その人となりを判断することは不可能だからである。

問題はここからなのだ。

面接官は短い時間の中で目の前にいる生徒がどのような人物であるのかを判断する必要がある。好むと好まざるに関わらず、人物評価を下さねばならない。「面接」という短い時間の中で人物評価を下すことへの反論はおいておくことにして、とにかく何らかの評価を下さなくてはならないのである。

それには、その人となりを知る必要がある。ありきたりの杓子定規な言葉を何度も聞いたところでその人の顔は際立つはずもなく、だから評価なんてできやしない。

人となりは、暗記された文章の棒読みから知れるものではなく、たとえたどたどしくとも「自分の言葉」で語る様子から窺えるものである。身振り手振りを交えて話す姿を通してみえてきたりもするし、次の言葉に詰まったときにそこで話すのを諦めるか諦めないかという様子からも窺えたりもする。だから面接官としては事前に用意できそうもない質問を投げかけるように努めることになる。少なくとも昨年の僕はそうだった(高校の部活動で一番うれしかった出来事をひとつ教えてくださいと投げかけてみたら、当時の様子を思い出し、感極まって泣き出してしまった生徒がいて少し驚いたこともあったが)。

だから、僕が「面接指導」という枠内で話をするとしたら、「事前に調べておくべきことを調べて話せるようにしておけば、あとは自然体のままで投げかけられた質問に答えればいい」という結論になる。

うーん、しかしながらこれでは講義を聴いた高校生にとりつく島がないような印象を与えてしまうだろう。と言うわけでもう少しだけ踏み込んで考えてみることにする。

「自分の言葉」で語る。ということを前提として続けてみることにすると、事前に準備できるものは「エピソード」だろう。いわゆる小咄をできるようにしておくということである。強い動機には必ず何らかのエピソードが付随している。僕が身体運動を研究しようと思い立った背景には「脳震盪の後遺症」という不治の怪我を患った経験があり、そこには数々のエピソードがある。4つの病院を回ったときの医者とのやりとりとか、内耳の異常や目の内側の骨折が直接的な原因だと診断されながらそれが快癒しても結果的に症状が改善しなかったりとか、数え上げればきりがないほどの「エピソード」がある。今となってはこうした「エピソード」の一つ一つを誰かに話して聞かすことができるけれど、脳震盪の後遺症が「今そこにある危機」として認識されていた当時は言語化することができず、ただ漠然と記憶の中で散らかされていた。それが、ブログや毎日新聞に書いたり、自らがどのような人生を歩んできたのかを誰かに語る際に繰り返し言葉にすることによって、徐々に一つの物語として形を為してきた。

こうした一連の経験を通して僕が高校生に言えることは、これまでの自らを振り返っておくこと。神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科を目指すのならば、スポーツに関すること、つまりはこれまでの部活動を振り返って「あんなこともあったなあ、こんなこともあったなあ」と感慨に耽っておくことである。そして、それを書いたり、親や兄弟や友だちに話したりしておく。それが「エピソード」を語れる自分への近道だろうと思われる。

今の僕に話せることはこういうことである。というわけだから明日は「このような話」をすることになるだろう。講義の前半は、僕という人物を知ってもらうためにエピソードを連打してみよう。それから後に面接の話を絡めながら「エピソードの効用」について話してみる。うん、そうしよう。