平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『街場の教育論』には汲みつくせないほどの知が詰まっている。

「おいおいおいおい、もうすぐ今年も終わりやん」の12月である。やたら寒くなったなあと思ったらまたちょっと温かくなったりして、行きつ戻りつの季節感の中をあくせく生きてるうちにあっという間に12月を迎えたわけであった。

読みたい本がどんどん発売されて、その度にどんどん購入していってるものだから、「積ん読本」は果てしなく積み上がって大変なことになっている。実際に積み上げているわけではないので詳しくはよくわからないけれど、その厚みを勘案すればおそらく僕の背丈くらいまでは積み上がるだろうと思う。わが師である内田先生は立て続けに『街場の教育論 』(ミシマ社)『昭和のエートス 』(バジリコ)『橋本治と内田樹 』(筑摩書房)を出版。感嘆、納得、恍惚の心模様で『街場の教育論』を読み耽っているうちに次の本を手に取るものだから、浮気心に流されるままに最初の数ページを読んでまた本棚にしまうという「チョイ読み」状態で積まれている。いつかのブログで書いた困難な自由―ユダヤ教についての試論 』は、本腰を入れて読まねば到底理解し得ないような内容で、いやいや本腰を入れても理解には至らないんじゃないかという危惧さえあるので、しばらくは積ん読、というよりは目のつくところに立て掛けられ続けることになろう。しかし本とは不思議なもので、そうして立て掛けられている本と目が合うたびになぜだか「ドキッ」としてしまい、「ドキッ」とするたびにいつか読める日が来るだろうことに想像を巡らせて、わけもわからず興奮したりする。今の自分とは大きく隔たった未来の自分の存在が身近に感じられるのは、心地良いものである。今よりも成長しているという確約は何もないのだけれど、その辺りはなぜだか楽観的に考えることができている。とても楽しみだ。と、その前に読む本はたくさんあるのだが。

それにしても『街場の教育論』はオモシロい。という一文で表現してしまうのが惜しいほどにオモシロい。曲がりなりにもいま教育現場にいる僕としては、読みながらに身体の深奥から納得してばかりいる。上っ面だけの教育論をさも高尚であるかのように仰々しく語る言説には苦しめられてばかりいたところだったので、胸のつっかえが取れて肩の荷が下りた。大学1年の頃から目的意識をはっきり持って、4年後の就職までを見据えた上で勉強をしなければならない。そうせっつかれながら大学4年間を過ごす様を想像してみれば、自然と嫌気が差してくる。おそらくほとんどの人はそうに違いない。なのに、それが当然なことであるかのようにいろいろなことが進んでいく。大学教員の立場としては口にしていはいけないことばなのかもしれないが、でもまあ、任期制教員の助教という立場の新人先生ならばこれくらいは大目に見てもらわないと、僕自身が相当に困るしおそらく学生も困惑することだろう。いや、そう信じたい。

当たり前なことは、当たり前なだけにわざわざことばにしなくともそこかしこに存在している。けれども、当たり前なことというのは多数決によって決まったりもするから厄介なわけで、そこに個々の欲が絡み合って利害関係を伴えば当たり前なことは容赦なく塗り替えられる。「直接就職に役に立つ知識を学ばなければ意味がない」とかが当たり前になって、教育の中での語り口が限りなくビジネス調になっていく。学びがお買物のメタファーで考えられるようになり、手持ちの買い物カゴに商品仕様の資格やストックフレーズを携えた人間が、まるで成長しないままほとんどガキな大人が絶えず社会に旅立っていくことになる。まるでガキなもんだから、機嫌が悪くなれば拗ねるし怒るし周囲をヤキモキさせるしで、そらもう大変なものである。

と、かく言う僕だってそれほど偉そうに言えたものではなく、それこそ周りを心配させることだってたくさんあるわけで、そのときは「ゴメンナサイ」と言う他はないのだけれども、心底からガキな人はこの「ゴメンナサイ」が言えない。自らのガキっぷりを覆い隠すように取り繕うから余計に話がややこしくなる。いやいや、覆い隠すことができるのならばまだいい方で、本人は覆い隠したつもりになっているが実のところ周囲には気づかれているという状態はまことにおどろおどろしい。人は誰しもが「裸の王様」な部分は持ち合わせていると思ってはいるのだけれど、その部分を笑える人と笑えない人がいる。笑えない場合はホントに大変なことこの上ないのである。

何だか愚痴っぽくなってきたので、当たり前なことについてのダラダラ書きはこのあたりで切り上げることにするが、とにもかくにも教育というのは難しいと感じざるを得ない今日この頃を過ごしているわけであって、つまりのところそのように感じるのは学生が「なまもの」であるということを強烈に実感しているが故なのである。先生は学生を成熟させようと試みるものであり、だからこそ自らの教育に効果があれば(いや、なくたって)学生はどんどん変わっていく。そのどんどん変わっていく学生と、日々の生活の中で対峙していくわけだから、その度にあの手この手を繰り出して教材を考えたり、話す内容を吟味したり、相談に応じたりしなければならないのは当たり前なことで、極端なことを言えば、昨年は学校の先生になりたかったけれど今日は外交官になりたいと言い出すことだってあり得ると腹を括らなければならないのである。

というようなことを『街場の教育論』に触発されて考えたのである。
という今日のブログである。

ちなみに最近読んだ本の中で内田先生が書かれた以外のイチオシは、福岡伸一できそこないの男たち』(光文社新書)であった。