平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

2020年6月8日。

ここ数日はすっかり夏空が広がっている。予報によれば今週末から天気が崩れるらしく、間もなく梅雨に入るのだろう。

緊急事態宣言が解除されて以降、徐々にではあるがいつもの日常に戻りつつある。もちろんこれは現実認識として間違っている。ウイルスが消えてなくなったわけではないから、あくまでも「気持ちのうえで」という話だ。日々の生活を営む上で、緊急事態宣言が発出されているときと比べると明らかに僕の心は穏やかである。いつまでもウイルスを怖がってはいられない。経済を立て直すためには努めていつもの生活を取り戻そう。なんだかそういう空気みたいなものが世間には広がりつつあり、その影響を受けての穏やかさなのだと思う。


ちなみに今回パンデミックを引き起こしているウイルスの正式名称は「SARS-CoV-2」で、これに感染したあとの病名が「COVID-19」なのだという。これにしたがい、今後は「SARS」を省略して「CoV-2」と書くことにする(いちいち変換するのが面倒だけれど)。

実際に今もこのCoV-2は私たちの身の回りにいる。どこぞの首長は「夜の街」にウヨウヨいるかのように考えているらしいが、ウイルスなるものは人間を媒介とするからには昼も夜も関係ない。人がいるところにCoV-2ありだ。にもかかわらず緊急事態宣言が解除されるとどことなく開放感が漂い、世間全体の自粛ムードが緩んだ。潮が引くようにさーっと。あくまでも僕の身体実感に過ぎないけれども、実は僕自身の胸のうちもそうで、「宣言の解除」をきっかけにして途端に張り詰めた自粛ムードから少しばかり解き放たれた。心の奥底ではまだ安心できないと頑なに思いつつも、それでもやはり心は軽くなった。

これってつまり、日々を過ごすなんとなくの気分が「お上」の判断によって左右されるということを意味している。CoV-2の感染拡大に関する専門家からの情報を頼りに日々の過ごし方を決めていたつもりで、実のところは「お上」のお告げをその根拠としていたことに驚く。社会心理としての世間の空気ということから考えると、ひとりの人間が自ら情報収集をしたうえでその行動を決定するというのはひじょうに難しい。たとえばマスクの予防効果がそれほど期待できないからといって、マスクを外して外出すればいかような心理的不安が襲うかを想像すれば、その難解さはわかるだろう。

だから大半の人はマスクをつける。本気で感染防止ができるかどうかが問題ではなく、周囲からの冷ややかな目を躱すために余分な心的エネルギーを浪費しないという選択をするわけだ。もちろん僕もその一人だが、でも一つだけ声を大にして言っておきたいことは、何気なく下しているこうした判断に無自覚ではいけないってこと。

人とのつながりの中で生きざるを得ない私たちにとって、社会の空気を感じてそれに従うことはしなければならない。マスクをつけないことで周囲に不安を与えるのなら、たとえ納得がいかなくてもマスクを着用する方が、心身ともに健康で毎日を過ごすことができる。だからといって社会の空気を最優先にし、すべての言動の根拠をそれに求めるとおかしなことになる。ひいては自分を見失うことにもつながる、とも思う。

話は変わるが、6月に入ってからもオンライン授業が絶賛進行中である。資料のみで授業を展開する困難さを感じ、対面のときよりも準備に時間がかかることですっかり疲弊しているのだが、だとしても学生への教育を充実させるのが僕の仕事だからどうにかこうにか手を尽くしている。そのなかで気になっているのが、あまりにも学生たちへのサポートが過ぎるのではないかということ。受講する学生の不公平をなくすために手厚くサポートするのはもちろん必要だが、あまりに手取り足取りの働きかけが続けば主体的に物事を考える構えを学生から奪うことになりはしないだろうか。それを危惧している。その匙加減をいかにして行うかが、オンライン授業による学びの肝だと思いながら、あれこれ工夫を凝らしているわけだが。

日々ストレスを蓄積させながら、それでも真面目に課題に取り組む学生たちに充実した学びをもたらすために、CoV-2の蔓延により突如として出来したオンライン授業のコツを早くつかみたい。そう思いながら今日も丸一日、資料作りに費やしたのであった。

窓の外では太陽が沈みかけている。
さあ晩ご飯にしよう。今日は冷やし中華