平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「不確実性」のなかにいる。

2月が終わるとともに僕の住む兵庫県では緊急事態宣言が解除された。昨年4月に発出され、5月に解除されたときと比べると、その解放感はまったく異なる。宣言後には閉塞感を、解除後には小さくない安堵感を覚えたのだが、今回は昨年ほどではなく、昨日までと同じような心持ちで1日が終わろうとしている。コロナ禍での生活に慣れたというのもあるし、宣言を発出しようが解除しようがCOVID−19はまだしばらく猛威を振るうと諦めているからでもある。

出口の見えない長期戦をストレスなく闘い抜くためには一喜一憂しないことが肝要で、そうして心理的に自己防衛をしているのだとも思う。補償という観点からすれば宣言をするしないで大きく異なるので、あくまでも僕の立場から言えばというだけだが、当たり前になりつつあるこのコロナ禍の生活がまだしばらく続くのかと思うと、やっぱり気が滅入る。

気のおけない仲間たちと飛沫を気にせず話をしながら酒を飲みたいし、馴染みの店にも気軽に足を運びたい。人が集まる市街地にも遠慮なく出かけたいし、首都圏をはじめとする県外の仕事もバンバン入れたい。知らず知らずのうちに他者との距離を気にするこの生活はもうたくさんだ。こうした欲望は公の場で口にすることが難しく、無意識的に我慢している。でも抑圧された感情は思いもよらない仕方で顕在化するので、こうしてブログでやや愚痴っぽく書き連ねてみると、ちょっとすっきりした。お目汚し、失礼。

それにしてもストレスというのは厄介だ。原因が明確ならまだしも、漠然としたストレスほど扱いにくいものはない。「なんだかわからないモヤモヤ」はいつの間にか心を濁らせてゆく。このコロナ禍であらためてそれを実感している。

いまのじぶんが感じているストレスを観察してみると、それは「ウイルスの感染拡大」ではなく、それがもたらす生活の不自由さであることがわかる。これまでの生活がままならない不自由さがストレッサーであって、ウイルス感染そのものではない。生活習慣を変えざるを得ない情況に突如として追いやられたことへの不適応が、ストレスの原因となっている。

そもそも「ウイルス感染」は歴史を振り返ると過去に何度も繰り返されてきた自然現象である。ペスト、天然痘スペイン風邪に、SARSやMERSなどがあって、いうなれば人類はいつのときも感染症の脅威に晒されてきた。ただそれを意識の外に追いやってきただけだ。つまり「考えないようにすること」で私たちはこれまで安心して日々の営みを送ってきた。厳しい言い方をすれば、思考停止に陥っていただけなのだ。

なんてカッコつけて正論を述べたところで情況が変わらないのはわかっているのだけど、考え方を整理することで幾ばくかの安堵が得られるのが僕の性格なので、もうちょっとだけ続けたい。

「ウイルス感染」が人智の及ばない自然現象なのだとしたら、その対策は誰がやってもうまくゆくはずがない。感染学の専門家であっても、人心掌握に長けたリーダーであっても、自ずとそうなる事象としての「自然」が相手なのだからすべてが事足りずに終わる。未知のウイルスへの対処法はだから、すべてが後追いになるのは自明で、この点における諦めならぬ「明きらめ」は必要だと思う。

リスクとは、経験的に確率的な予測ができるもの。だから管理できる。でもいまの社会は、経験知がなく確率的な予測も不可能な「不確実性」の状態にある。リスクそのものが把握できないのだから、予測も管理もできない。現象のひとつひとつを分析しつつ、現時点で考えうる限り最善の手を打ってゆくしかない。当然、そこには間違いもある。その間違いもまた分析して、さらなる次の手を打つ。そうやって積み重ねいくしか方法がないのが、この新型コロナウイルスが蔓延するこの社会である。

ここは押さえておきたいと思う。

ただ、だからといってここまでの国の対応を批判しないというわけではない。分析したその理路を私たち国民に充分に示してくれているとは言い難いからだ。不確実性がともなう情況では、どのような筋道でその結論に至ったのかを明確にしてくれなければ、安心は得られない。どの情報を頼りにしてその結論に至ったのかがわからない限り、不安は増幅する。先を見通せない夜道を、せめて安心して歩くためには適切な導きが必要だが、その導き方に誠実さが足りていないと僕は思う。

いずれにしても、今の私たちが不確実性のともなう情況に置かれているという自覚は、幾ばくかの安堵をもたらすはずだ。ここは忘れずにいたいと思う。