平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

専門家と芸人コメンテーター。

まともにテレビを観なくなってしばらく経つ。ニュース番組とNHKのドキュメント、それからEテレの子ども向け番組を娘と観たりするくらいで、あとは観ない。たまにザッピングしても(あくまでも主観的にだが)くだらない番組ばかりですぐ電源を切る。とくに芸人や専門家らしき人たちがガヤガヤ話すだけのワイドショーには辟易としてしまい、余計なストレスが溜まるだけなのですぐに切ることにしている。1975年生まれの、テレビで育った世代の一人として、この凋落ぶりには驚きとともに一抹の寂しさを感じている。

1月だったか、とある週刊誌で「芸人コメンテーターは必要か不要か?」という記事を読んだ。そこでコラムニストの小田嶋隆氏が「芸人は芸能ニュース以外に口を挟むべきではない」と明確に述べる内容に溜飲を下げたのだが、その理由が実に明快だった。

・専門性がないのに「伝える力」に長けていることが問題
・庶民の視点は往々にして誤解や偏見を含んでいるから、専門家の目を通す必要がある
・にもかかわらず、視聴者が感じるモヤモヤとした感情を脊髄反射言語化してしまい、一方的な怒りや偏見が正しいとお墨付きを与えてしまう

 

自らの偏見を正し、高ぶる感情を抑制するために私たちは専門家の知見に耳を傾けるわけで、その意味でこれまでのテレビ番組はそれなりに有用な知見を発信していたはずだが、残念ながら今はそうではない。庶民的といえば聞こえはいいが、ほとんど素人な芸人コメンテーターは専門的な知見を有しておらず、中身のないただ耳あたりがいいだけの小気味よい言葉をユーモアでくるんで話す。抜群のタイミングで笑いを挟むので、油断をすればつい納得してしまいそうになるのだけど、その内容にはなんの根拠もない。一時的に胸の内がすくだけに終わる。

だから時間が経てばまた同じような疑問が湧き、不安も生まれる。

このモヤモヤとした胸の内は、従来の考え方や手持ちの知識では立ちゆかないときに生じるもので、大げさにいえば人が成長する、あるいは人生が深みを帯びてゆく前の「助走段階」である。モヤモヤとするから新たな知見を得ようとするのであって、だから簡単に手放してはいけないものだ。意欲が醸成されるという点でも、しばらくはモヤモヤしておいた方がいい。それを芸人コメンテーターが雲散霧消にしてしまう。

小田嶋氏は実に大切な指摘をしていると私は思う。

ただ一方で、専門家の側にも問題があることは付け加えておきたい。自戒を込めていうと、専門家は往々にしてわかりやすく伝えることに長けていない。専門用語を並び立てたり論旨が明確でない専門家の物言いを苦手とする層が、あまりにわかりやすい芸人コメンテーターの言明に飛びつくのは想像に難くない。この専門家と芸人コメンテーターの共犯関係が、今日のテレビの凋落を招くことになった一因だとも思う。

もっとも、限られた時間で歯切れのよいコメントを残さなくてはならないテレビという媒体が限界にきているという見方もできるし、だとするならばテレビが求める人物像は、専門的知見を有しながら芸人なみの話術を持つ人ということになるが、そんな人はそうそういない。テレビの未来は限りなく暗い。やはりちょっと寂しい。