平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

思いが先か、言葉が先か。

お察しの通り、ここんところ書く気分にならない日々が続いている。夏休みなので時間はたっぷりあるにもかかわらず、である。いや、逆にたっぷりあるから書けないのか。そんな気もする。とにかく書く気分にならないのである。

そんな気分の中、半ば無理やりに書いたことがこの1週間のあいだに2度ほどある。ブログへの訪問履歴をチェックしてみたら更新されていないにもかかわらずたくさんの人が訪れてくれていることがわかって、その方たちに申し訳ない気持ちがあふれたので書いてみたのである。それでも更新するには至らなかった。書き上がったものを読み返してみたら、なんとも稚拙で僕のエゴがダダ漏れだったので直ちに消去したのであった。

これまでにも書けない日々は訪れた。そのときは「書けないということ」をダラダラと書くことによって何とか乗り越えてきた。だから今回もそうしてみようと、今日のこの文章だけは意地でも更新しようと目論んで書き始めてみた。そう強く自分に言い聞かせて書き始めたつもりだったのに、たった400字を超えたあたりで早くも消去したい衝動に駆られてきた。とっても気分やさんである。いまさら何を、という突っ込みが聞こえてきそうだけど。

自分が何を思い、何を考えているのか。「意識が向かっている対象」を明らかにするためには言葉がいる。はっきりとした形を持たない思いや考えは言葉によって縁取られる。芸術家ならば音や模様や絵なのかもしれないが、ほとんどの人が言葉によって自らの思いや考えを形にする。よくわからないけれど胸のあたりがモヤモヤとする感じ、激しい共感を覚えた時の高揚感などの感覚的な波風は、言葉で縁取ることによって形になり、たくさんの人のもとに届けられる可能性が与えられる。

ボワーンといった自覚を伴う感覚的な波風を縁取るときに、どのような言葉を使い、どのようなリズムで形づくるのかがとても大切だ。それがすべてだと言ってもいいほど大切なことだと僕は思う。形づくられたものが「呪」になるのか「祝」になるのか。それを決定づけるのがまさに言葉のリズムだと思うからである。書かれたものすなわちコンテンツももちろん大切なのだけれど、「書く=言葉を紡ぐ」という行為の本質はリズムにある。

サザンの「いとしのエリー」とレイ・チャールズの「Ellie My Love」はほとんど違う曲に聴こえる。同じ曲のはずなのに歌い手が違い、演奏の仕方が違えばあれほどまでに変わる。
たぶん文章もこれと似たようなものなのだと思う。

人間の心に去来する思いというのはおそらく各人それほど違わない。手に入れようとする方法は千差万別なれど、つまりのところみんながみんな幸せになりたいわけである。あくまでも幸せになりたいという欲望をもとに、そこから細かな欲が生まれてきて、その細かな欲が自己運動を始めて他人を蹴落としたり、権力への執着を生みだしたり、なんだかおかしなことになってゆく。でも、元を辿ってみれば行き着くところは平穏無事であり、幸せになりたいという欲望だろうと思う。だから至ってシンプルに考えれば(というのは本質的に、根源的に考えるということだが)、人が抱く思いに大きな差はない。表面的に異なる部分はあっても根元の部分は必ずつながる。そう僕は信じているし、信じたい。

そうした思いをどのような言葉に乗せて、どのようなリズムで奏でるのか。どのような息づかいで書いていくのかによって文章というものが成り立っている。ここのところ書く気分が起こらず、書いたものを消去したくなる衝動は、このリズムに対する違和感から生じていたのだと思う。あれもこれも書きたいことはあるのにどうしたって書けないのは、たぶんこういうことだ。リズミカルな息づかいで書けないことへの苛立ちなのだ。その理由には心当たるところはたくさんある。ここでは書けないけれど。

ということがわかったところでちょっと楽になった。
思いが先か、言葉が先か。やっぱり言葉が先ということだ。

さあ帰ろう。