平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

2020年4月6日。

またここで日記をつけ始めようと思う。新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない今、ものすごいスピードで日々が過ぎ去っているように感じるからだ。もうすぐ2歳になろうとする娘がいるので家族と過ごす時間を大切にしながら、できる範囲での仕事になるべくゆったり励んでいるものの、やはりウイルスの感染拡大を防止するためにあくせくしてしまっている。

 

日ごとに更新される情報にキャッチアップすべく、ネットやテレビや新聞をチェックしているのだが、先行きが不透明だけに確たる情報が得られず、どの情報も「今のところはこうである」という域を出ないから、どうしても徒労感が残る。世界的なウイルスの蔓延だから、そもそも確たる情報など誰も出せるはずがないのはわかっている。専門家も政治家も、刻々と変化する事態を把握しようと努め、把握した事態をどのように乗り切るかの対策を各所で行っている。そうして発せられる細切れの情報をかき集めて、日々、どのように行動すればよいのかを考えているわけだが、いつも、いつのときもウイルス感染への心配が拭えないからどこか焦っている自分がいる。

 

まるで自動車を運転するのと同時並行で故障した箇所を修理するような、アクロバティックな心理状態だ。こんな状態では、日常生活の一コマ一コマが記憶に止まることなくただ流されていくような無常感が漂う。人生を充実させるのに必要な僕の意識は「ウイルス禍」に奪われてしまっていて、だから見過ごしてはいけない日常のちょっとしたよろこびや悲しみを見過ごしている気がしてならない。

 

だから日記を書くことにした。その日にしたことや感じたことをただ羅列するだけの、わざわざ人に話すようなことでもないことばかりを記すことになるかもしれないけれど、それでもいいと思っている。僕自身が自身の胸の内を整理しておくためのささやかな日記だから、読むに耐えないと感じる人はさっさとスルーしていただきたいと思う。

 

ならば誰にも読まれないところで書けばいいではないかと思われるかもしれないが、少しでも他者の目を意識することでその内容は丁寧になるから、あえて公の場でこうして書いてみたい。もしかすると、この駄文が例外なく緊急事態を過ごすみなさんのちょっとした息抜きになるかもしれないし、その蓋然性は大いにあると思う。

 

にっちもさっちもいかない現状ではそもそも人と話す機会が減っていることもあるし、編集者の目を通さず日常の何気ない一コマを綴ったほぼ会話のようなテクストに、なんとなく肩の力が抜けるってことはありそうな気がする。鋭利な言葉が飛び交うツイッターに辟易としている人が、少しでもホッとできるようなテクストを目指して、思い立ったときにダラダラ、ではなかったツラツラと書いていこうと思う。

 

今日は大学に出勤した。うちの大学は4月27日から春学期が始まるのだが、しばらくはネットを通じた遠隔授業を行う。ZOOMってやつを使うらしく、研究室のパソコンからきちんとつながるかどうかのテストをするためだ。思いのほか簡単ですぐに繋がり、数人の先生と話をした。資料の提示も画面を切り替えればできるようで、なんとなくではあるが遠隔授業のイメージがつかめた気がする。今週末には大掛かりな研修が予定されているので、それを受ければさらにこのイメージは広がるだろう。慣れない遠隔授業をしなければならないってことに抱いていた不安は、ある程度は払拭できたように思う。今さらだが科学技術の発達というのはすごいものだ。

 

以後は僕以外には誰もいない研究で本を読んだり、これからの予定を手帳を開いて確認したり、朝日新聞で連載中の『知って楽しむラグビー学』の原稿を手直ししたりした。職員さんや企業で働く人たちに比べて、研究室が与えられている僕は職場環境に恵まれている。電車通勤だから大学を往来する際の感染リスクはあるが、そこさえ気をつけていればなんとかなるし、幸いなことに通勤ラッシュの時間帯を避けることもできる。新開地駅から乗り換える神戸電鉄はいつもガラガラに空いているからありがたい。手洗いとうがい、そしてマスク着用さえ怠らなければ今のところは大丈夫だろう。

 

事態が終息するまではとにかく本を読む。そして書くことにしよう。ウイルス関連の情報を収集しながらも、今の自分にできるこのことに集中したい。あらゆることを根本から考え直さなければならない今を、自分が試されていると捉えたい。