平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

特別番組【STOP TOKYO OLYMPICS だから私は五輪中止を求めます】に出演して。

先日、特別番組【STOP TOKYO OLYMPICS だから私は五輪中止を求めます】に出演した。いかにリンクを埋め込んでおくので、興味のある方はぜひ視聴してほしい。

 

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6人の出演者が交互に宇都宮けんじさんと対話を繰り返す番組編成で、僕は現役看護師の渡辺さん、ダースレイダーさんに続く3番目に登場します。出番を待つあいだ、そして出番が終わったあとも他の方の話を聴いていて、感じ入るものがあった。今日のブログは備忘のために感じたこと、考えたことを書いてみたい。

まず現役看護師ワタナベさんのお話からは、逼迫する医療現場のリアルが伝わってきた。ワクチン予約の電話がパンクしており、それにともなって電話がつながらず直接来院する人への対応に追われていること。それから非常時にお願いする応援ナース(非常勤)の手配に遅れが生じており、厳しい情況にあると話されていた。4月の終わりに大会組織委員会日本看護協会に500人の看護師の派遣を依頼したことには「ありえない」と明言。最後に述べた「五輪は、今すべきではない」との断言は、真摯に受け止めるべきだと思われる。

その次のダースレイダーさんのお話で印象に残っているのは、次の通り。
・深刻にならずに「中止」そのものをお祭りにする
・先の敗戦でも明らかなように、日本は「途中でやめること」が下手。というかできない。東京五輪をきっぱり「やめること」によって、日本全体が戦後引きずってきたものにケリをつけるべきだ
・コロナが流行る前から指摘されていた「暑さ対策」がなおざりになっている
・スポンサーだから指摘できないのではなく、スポンサーだからこそ運営が健全であるかどうかをきちんと報じる必要がある
確かに「暑さ対策」については僕自身すっかり失念していた。ビルのドアや窓を開けて冷風を送るとか、打ち水をするとか、朝顔を植えるとかの、非現実的な対応に終始する主催側に唖然としたのを思い出した。抜本的な対策が決まらないままでは、観客やボランティアが熱中症でバタバタと倒れる事態にもなりかねない。懸念されているのはコロナ対策だけではない。

それからスポンサーに関する指摘については気づかなかった。東京五輪は、大手新聞がスポンサーに名を連ねていることに問題があると思っていたが、そうではなかった。

そして最後に、日本は「やめること」が下手、というよりできないという指摘はもっともで、最後に登壇した内田樹先生もこの点を指摘し、宇都宮さんも頷いていた。「最悪の事態を想定する」のを集団的に忌避するのが日本であり、最悪の事態を想定するから最悪の事態に陥るのだという世にも不思議なロジックで、警鐘を鳴らす人たちの声を封殺してきた歴史があると。

リスクテイクとは、最悪の事態を想定した上でそうならないように対処を行うことを指すはずで、だから日本では本当の意味での「リスクテイク」は為されない。

そういえば以前、神戸大学の小笠原博毅さんが、リスクは「ヘッジ」するものではなく「テイク」するもの。だから厳密にいえば「リスクヘッジ」という言葉遣いは間違っているという内容のお話をされていたのをふと思い出した。さらにリスクには「勇気を持って試みる」という意味が含まれているから、つまり「リスクテイク」とは、最悪の事態をきちんと想定し、情況を鑑みた上であえて挑戦する、という意味になる。

この意味でいえば、開催ありきでことを進める主催側の動きは「リスクヘッジ」であって、たとえるなら車を運転するドライバーが目隠しをしてアクセルを踏み込むようなものだ。事故を起こしてけがをするのが自分たちだったらとくになにも言わないが、実際に運転席に座るのは国民である。自分たちは安全な場所にいながら遠隔操作でそれをしているわけだから、タチが悪い。とうてい見過ごせるはずがない。

お二人は、感染者の急増が止まらないなかでも開催されるのではないかという悲観的な見通しを語っているが、話を聴いていると僕もそんな気がしてきた。コロナ禍の収束が見えないなか、いくらなんでもこの情況での開催はないだろうとうっすら思い始めていたが、先に書いた「やめることができない」日本的な思考習慣と、西側諸国がボイコットした1980年のモスクワオリンピックや、パレスチナ武装ゲリラがイスラエルの選手とコーチを誘拐し、死者が出た1972年ミュンヘンオリンピックでさえも開催した歴史的事実を合わせると、このまま強行に開催されることは大いにありうる。彼らにとってみれば、社会的に弱い立場の人たちの生活が虐げられることも、医療従事者にさらなる負担をかけることにも、うしろめたさを感じないのだろう。そう考えると目眩がしてくる。

宇都宮さんは、反対を表明することを恐れすぎだとも言っていた。反対したことで拷問されるわけでも、特高にとらわれることもないのだから、もっと自由に議論をすべきであると。このたびの署名運動を始めた動機にも「議論を巻き起こす必要性」があると冒頭に語っておられたし、そもそも反対表明を自粛する人がこんなにもたくさんいることを気持ち悪く思わなければならないという指摘は、至極その通りだと思われる。

このまま東京五輪が開催されれば、日本社会に大きな大きな爪痕を残すのは明々白々である。それでもなお開催に向けてことが進んでいるのが現状で、東京五輪関連のニュースを目にするたびに腹の底からふつふつと怒りが湧いているのだが、この状況下においては開催国に住む一人としてただ指をくわえて時間をやり過ごすことはしたくない。

そこで内田先生の以下の指摘を胸に留めておきたい。

今のこの緊急事態において、誰がどんなことを述べ、どんな行動をしているのかを記憶しておくこと。もし開催されればメディアはこぞって盛り上げ、大会が終われば「やっぱりやってよかったね」という肯定的な記事が並ぶはずで、大会を冷静に振り返ることができなくなる。公文書も破棄されて真実は闇のなかに葬られてしまうだろう。また、大会が終わってから「実は反対だったんだよね」と発言する人もわらわらと出てくるはずだ。だからこそ、誰がどのような言動をしていたのかは具に記憶しておきたい。そうしてモチベーションを保ちながら、今後も五輪反対を言い続けようと思う。

殴り書きになってしまったが、僕自身の備忘録ということでどうぞご海容ください。