【心身論】という講義で、安田登さんの『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』(ミシマ社)を紹介した。
昔の人には「心」がなかった。それがおよそ3000年前に文字が誕生したことで「心なるもの」が芽生え、文字によるコミュニケーションを繰り返すなかで、いまの私たちをざわつかせている「心」はかたち作られていったのではないか。
あまりにざっくりとした説明で恐縮だが、安田さんのこの仮説について、少なくない学生たちがコミュニケーションカードで言及していた。このスリリングな仮説はどうやら学生たちの知的好奇心に火を点けたみたいである。
「心」があることを私たちは当たり前だと思っている。だが、よくよく考えてみると、目にも見えないし、どこにあるのかもわからない「心」を、間違いなくあると断言する方が、どこか不自然である。心の働きとしての思いやりもまた、曖昧模糊としていてその実体は定かではない。立ち止まって考えれば実体が不確かなその「心」を、まるでずっとそこにあるかのように仮定した社会に、私たちは生きている。「心」を使いこなそうとしながらもうまく使えず、その「心」自体に飲み込まれてしまいそうにもなっている。
そういえば現役選手のときに、試合前の緊張と向き合うなかで「いっそのこと機械になりたい」と願ったことを思い出した。押し寄せるプレッシャーを跳ね除けようとしたときだ。そもそも心理的な重圧は、それを感じて受け止める「心」があるから生じる。だから「心」などなくして、まるで機械のように淡々とプレーできればいい。どんな試合でもハイパフォーマンスを発揮できる先輩たちは、その境地に辿り着いているはずで、だったら自分もそうなりたい。「心」などいらぬ。感受性をオフにして、機械的に眼前の情況に対応できるマシーンになる。いつしかそう心がけるようになった。
この心がけが功を奏したのかどうかはわからないが、選手晩年には試合前にほとんど緊張しなくなった。マシーンになるのを心がけることで重圧をものともしない精神状態が作れたのだとすれば、それはそれでオモシロい。「心」に仕事をさせない状態が理想で、その理想には、暴れる「心」を打ち消し続けることによって至ることができる。
「心」について考えているといつも頭に浮かぶのは、やはり『沢庵 不動智神妙録』にあるこの言葉である。
「心こそ心迷わす心なれ、心に心心ゆるすな」
来週の講義は、このあたりから話を進めていってみようか。