平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ホントに「記憶にございません」のです。

8時から始まるラクロスの練習にちょっとだけ遅刻して足を運ぶ。
さらさらの風にすっかり秋の到来を感じながら
彼女たちのプレーに視線を送る。
大学に来るまでラクロスを深く知らなかった僕でも、
半年ほどの時間をかけて定期的に見ていると
それなりにわかってくる。

だから気付いたところは積極的に口を出すようにしている。
練習の合間に円陣を組んで
選手同士が気づいた点を指摘し合う中で、
このラクロス初心者コーチはあーだこーだと話す。
専門的なスキルについてのアドバイスはできないにしても、
一つ一つのプレーについての根源的な問いかけならお手のもの。
身体の使い方という観点からプレーを見直すきっかけを話したり、
ゴール型スポーツにおける試合中のコミュニケーションの難しさと仕方など、
練習を見ながら気づいたところを、
少しじっくりと思考して熟成させてから伝えることを心がけている。

「心がけている」というのは、
ついつい口が滑ってあれもこれも話し出すときがあるからだ。
話している僕自身はとても楽しいのだけれど、
なんせ、33歳元ラガーマンでこれまでスポーツ一辺倒の人生を歩み、
今は主に哲学書に夢中な野郎が楽しめる話なのだから、
ラクロッサー女子大生には「?」な内容であることは間違いない。
そういった内容を一通り話し終えた後になって
「ああ、言い過ぎたかも…」と自省することもあるから、だから「心がけている」のである。

ただそういった内容の話に興味を示す学生もいる。
だからうれしくなってまた話が過ぎてしまうのだけれど、
おそらくこうした行きつ戻りつの指導はこれからも続くのだろうと思う。
あまりに内容を噛み砕き過ぎると
それは学生たちを見くびっていることにもなるから、
学生たちの潜在能力を信頼するといいう意味でも
話は少し過剰な方がいいような気がしていて、
それでもやはり難し過ぎる話はやっぱり退屈なわけで、
だからこそ「心がけること」が必要なんだろう。

不足と過剰のあいだに狙いを定めてガツンとことばを紡ぐ。
ああ、なんて難しいんだ。でもオモシロい。

練習が終わったあと、
この前の試合で最後のダメ押し点を決めたある学生に、
「あのシュートは気持ちよかったやろ?」
と話しかけてみると、
「実はあんまり覚えてないんです」と彼女は答えた。

そうなんだよな、試合の流れに乗り切った時のプレーって、
驚くほどに記憶に残っていないことが多いんだよなあ。

最後の得点になるまでのプレーを振り返ってみると、
パスミスはあったが一連の流れの中でプレーが成立していた。
それは「フロー体験」であり、
選手は「ゾーン」の中にいたのだと思われる。

いつかのブログか身体観測か、
【がるぼ】か【サードロー】でビールにまみれながらか、
はたまた内田先生宅で牌を握っているときなんかに、
何度も何度も書き話していることだけれども、
試合中のあのプレーやこのプレーに対する選手本人のコメントは、
すべて後付けの物語に過ぎない。
試合後にインタビューを受けたときの
「あのトライは狙ってましたか?」などの質問がきっかけとなって、
“あの”ときの“あの”プレーを俯瞰的な視座から振り返るのである。

その「俯瞰的な視座」が観客からの視座に近ければ
それはウケのいいコメントになるのだろうし、
メディアからの視座に近ければ、
意図的な物語に流し込みやすいコメントになるのである。

だから僕は、
「よく覚えていない」という彼女の素直な答えには
心の中で満足している。
それだけ試合の流れに身をあずけることができていたのだと、
解釈するからである。

「己の身体が時間の流れに過不足なくぴったり重なった状況は、
記憶に深く刻まれることなくタイムリーに言語化できない」
という現象を僕は経験的に知っている。
体感的に紛れもなくそれは現実であると僕は言い切ることができる。

熱々の鍋に触れてしまい瞬間的に手を引いたあとに、
「なぜ手を引いたのですか?」と訊かれて
「熱かったからです」としか答えられないように、
不意に躓いてしまって手を地面に着いたときに、
「なぜ手をついたのですか?」と訊かれて
「こけないように」としか答えられないように、
状況に応じて咄嗟に反応したときの動きは
原則的に言語化することは不可能なのである。

だから、「その選手が行ったプレーについては選手本人が一番よく知っている」
という前提が、メディアを始めスポーツウォッチャーのあいだで当然であるかのように思われていることが不思議でならない。

ここんところ読み返している
レヴィナスと愛の現象学 』(内田樹せりか書房)に、こんな箇所がある。

「主体」が決断を下すのではない。決断が下された後になって、そのような行為を起動させた「始点」が事後的に確定され、それを人は「主体」と名づけるのである。p.70

内田先生が書いておられるレヴィナスの「主体」という概念で、
僕が経験的に確信を得ている現象を説明できると直感する。

試合中に起こるプレーごとの決断は
その時々の状況の変化に大きく左右される。
よって決断は選手が独断的に「下す」のではなく
あらゆる外的要因のもとに「下される」ことになる。
細々した決断の連続体により試合が成立すると解釈すると、
そうした決断一つ一つが記憶として選手個人にあるはずもなく、
なにより「主体」が成立していないのだから記憶は個人に帰属しない。
試合後のインタビュアーの質問が引き金となり、
試合中の自らを振り返って
ある特定のプレーを「始点」とする物語を編むことで
あくまでも事後的に「主体」が立ち上がる。
試合中のまさにゾーンに入っている選手
「主体」は存在しないのである。

なるほど、だからチームというのは有機的な結びつきを必要とするのだな。
まるで一つの身体のように連携を密にするためには、
「主体」はいらないのだ。
試合の流れに浸りきり、
無意識のうちにプレーできる選手が揃えば、おそらく無敵だろう。
もしこうした理想が実現するとなれば、
試合後の選手たちは
「すんません、まったく覚えてません」と言うしかない。
それはそれでオモシロいけれども、
せめて気の利いたコメントができるようにしとかないといけない。
でもまあ、それほどまでに無意識に浸りきることのできる選手なら、
言語能力にも長けているはずだろうから、
無用な心配なのかもしれないけれども。

確かにこうした考えは理想に過ぎるかもしれないが、
これから目指す方向としてはそんなに間違っていないんじゃないかな。
目指すことは誰だってできるわけだから、
スポーツの見方というのをここらでいっちょ見直してみてもいいんじゃない?

「記憶にございません」という言明は、
スポーツ界では正当なのでございます。