平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

他者性を毀損しないために。

AO入試の2次面接のために今日は朝から大学に来る。
土曜日に大学の研究室にいることは少ないのでなんだか不思議な気分だ。

ここんところ朝晩はめっきり涼しくなったなあと感じていたけれど日中はそれなりにまだ暑く、いつも昼食をとる喫茶店さんふらわあ】でエビフライカレーを食べて研究室に戻ってくると部屋が「もわっと」していたので、思わずエアコンのスイッチを入れてしまった。
夏休みも終わりかけの9月も半ばになって過ごしやすくはなったけれど、
読書をするにも美食に浸るにも最適な秋の到来は、まだ少し先のようだ。

この前のブログにも書いたけれど、今は『レヴィナスと愛の現象学 』(内田樹せりか書房)をせっせと読み返している。初めてこの本を開いたのはいつやったかいな、と振り返ってみると、確か「CLUBONE」で初動負荷トレーニングをしていた時だからたしか3年前。
さっそく過去のホームページを「レヴィナス」で検索してみると、2005年6月18日「師のテクスト」に行き当たった。

ビンゴ!

もう3年も経ったのかという想いとまだ3年しか経っていないのかという想いが交錯して、なんだか不思議な気分になる。

ここ数年のあいだの出来事を思い出すときに、思い浮かべる情景の中にまだ現役選手だったころの自分がいることには、わかっていながらもいつも唖然となる。今となっては遠い過去の経験として自らに刻まれているから、「はてさて、あの頃は何してたかな」と回顧するたびに、「おっとそのときはまだラグビー一色の生活だったなあ」と、ハッとさせられるのであった。

さて、その『レヴィナスと愛の現象学 』。
読み進めることで、心の奥で何かが起動していくような躍動感が芽生えてくる。知のダイナミズムが感じられて、気分が高揚してくるのである。

当時の僕がどこまで理解していたのかは当時の僕にしかわかりえないことだけれど、そもそもレヴィナスの思想はあらゆるテクストが一義的な解釈にとどまらないことを目指しているだけに、どれだけ理解していたのかという理解度を測ることにはほとんど意味がない。「3年前の僕」だけにしか汲みだし得ない仕方でテクストを読み、解釈者としての僕が生活に根ざしたかたちでその思想を志向していたのであれば、その姿勢はまさしく「レヴィナス的」だろう。

内田先生を通じて僕はレヴィナスを知ることとなった。
それは裏を返せば、内田先生がいなければ僕はレヴィナスという存在を知ることがなかったということであり、おそらくというか絶対に、内田先生に出会わなければ僕はレヴィナスの思想に触れる機会を得ることもないままにあの世へ行ったであろうと思われる。
こうした確信をさらに深く確信づけるのは、無謀にもその読解に挑戦しようと購入した『時間と他者  』(E.レヴィナス 原田佳彦訳)が、ほとんど“ちんぷんかんぷん”だったことだ。『時間と他者』を開く前に内田先生が語るレヴィナス思想を知っていたがゆえに、一部なんとなくイメージが湧く箇所もなきにしもあらずではあったが、ほとんどまったくわけがわからなかった。

これらのテクストが、どのような仕方で編集されることであのような理解しやすいことばに置き換わるのかということを考えると、まさに神業という表現以外に僕は思いつかない。
内田先生がレヴィナス思想を語るときのその「語り口」を理解しようとするその行為が、レヴィナス思想に反することになるのはわかっていながらも、その尊大さに圧倒されてつい「把持」したいという欲求が生まれそうになる。

でもそれは違うんだよ、とレヴィナスは言っている(たぶん)。

何かを理解しようとすることすなわち「把持」は、同じ地平において物事を比較考量しようとすることであり、値踏みをするような仕方での理解が「把持」である。
弟子の想像や解釈をはるかに超越する存在が「師」である以上、「師」がいかほどの知性を備えているかについてのいかなる判断基準を弟子は持っていない。

つまり弟子は「師」を「把持」することはできない。
「師」がどれほどすごいのかを、弟子が雄弁に語ることはできないのである。

うん?ほんとにそうか?

いや、「師」のすごさは語ることができるよな、たぶん。
そうじゃなくて、「師」のすごさについての明らかな根拠を語ることができないのだ。明らかな根拠を提示して語ろうとするのではなく、あくまでも個人的な理由から「師」について語ることはできる。「なんかよくわからないんだけれど、とにかくすごいんだよな」というマクラのあとに、「師」のことをひたすらノロケまくるということはできるもんな。

お!ということはだ。
この固有名において語る仕方が「懇請/誘惑」ってことになるんとちゃうかな?
解釈者の実在的介入(懇請/誘惑)が「意味生成」をもたらす、と確かに書いてあった。歴史的、場所的に具体性を持った弟子が自らの人生になぞらえて語るという仕方こそが、「師」に込められた本質を貶めることなく「師」を語る方法になるということか。

うーん、ここまできて頭がこんがらがってきたぞ。


まあ今日はこんなところにしておいて、
研究業務および秋学期の講義の準備に取り掛かることにしよう。
それにしても現象学という視点から物事を考えるのはオモシロすぎる。