平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

汗だくボイジャーと『1Q84』。

エアコンが故障したままのボイジャーに乗って先ほど大学に到着。エアコンの故障は2か月ほど前に発覚したものの、あまりに高額な修理費に戦いてそのまま放置しているのである。そろそろ梅雨が明けそうな気配で、いよいよ本格的な夏が始まろうとしている。エアコンなしでこの夏を乗り切れるとは思っていないが(すでに今日も汗だく)、来年2月に車検が控えていることと、購入から9年目を迎えて11万kmに届こうかという現状を踏まえれば、買い替えということも視野に入れながら考えなければならない。しかしながら、さしあたって欲しい車もないし、買い替えるにしたところでまとまったお金がかかる。どうせ買うのならばゆっくりと考えたいところだが、7月は水泳実習やら試験やら成績やら補講やら対談の司会やらで、気持ち的な余裕がまったくない。

このまま車を手放してみる?よくよく考えてみればそれもありかもしれない。しばらく車に乗らない生活をしてみるのも、「低燃費って何?」と叫ぶ日産のハイジのうっとうしさを思い浮かべれば、ありかもしれない。それと同時に最後の最後まで乗り切りたいという想いもあって、なかなか複雑なところである。経済的な面を度外視してみればたぶん乗り切る道を選択するだろう。9年も乗れば愛着も湧くというもので、それ以上の何か特別な感情が芽生えていることも確かである。大げさに言えば、自分の手足となっているとも言えるわけで、引退を機に身の回りの環境が大幅に変化した現在を鑑みると、環境の変化は必要最低限にとどめておきたい衝動にも駆られる。

とにかく。もう少しこのまま放置しておくことにしよう。暑くて暑くていてもたってもいられなくなれば自然発生的に行動するだろうという、投げやり的で楽天家ぶった態度でいることにする。

さて、遅ればせながら村上春樹1Q84』を先日読み終えた。
もともと好んで小説を読むわけではなかった僕が村上春樹を読み始めたのは、内田先生とアオヤマさんの影響を受けてからである。『村上春樹にご用心』の中で内田先生が語る村上春樹に人物的な魅力を感じ、お酒を飲みながらアオヤマさんから聴いた話から村上春樹が語る物語への志向性が芽生えた。小説よりも思想書が好きだったこともあるのかないのか、『ねじまき鳥クロニクル』と『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の読後は不思議な感じが心に残響し、そのままこびりついたままで今もその不思議な感じは心のどこかにじっと居座っている気がする。

村上春樹という作家の評価は賛否両論なのだと言う。こき下ろす人もいれば村上春樹が紡ぐ物語にすっかり虜になる人もいる。そうした現象を踏まえながら、「なぜ村上春樹の文学は世界性を獲得したのか?」と言う壮大な問いに向き合ったのが『村上春樹にご用心』であった。村上文学について内田先生が語る言葉は僕をいちいち納得させた。まだ村上春樹の小説をまともに読んだことがない僕であっても、内田先生の書かれた言葉が腑に落ちるのである。まるでまともに村上春樹を読んだこともない人間が、村上春樹を語る言葉にいちいち得心を得るという現象そのものが、村上文学が世界性を獲得するに至ったことを立証している気がする(僕が内田先生を師事しているということももちろんあるが)。「世界性」という言葉を「閉鎖的な集団や共同体の超越」という意味に解釈すれば、村上春樹に詳しい人もそうでない人も、肯定的にとらえる人もそうでない人も、それぞれを巻き込みつつ渦が広がりつつあることに想像が至る。もっと広げて言うなれば、善や悪といった両極な価値観の境界をも超越していっている。たぶんそういうことなんだろうなと、限りなくど素人な僕としては感じているのである。

さてさて『1Q84』。あまりにたくさんのメッセージが込められていて一度読んだだけではそれらを拾いきれるはずもなく、だからこうしてかんたんに感想を書くことがためらわれるのだが、今こうして書きながらに一つ頭に浮かんだのは次の言葉である。

“説明しなければわからないことは説明してもわからない”

確か、天吾が施設にいるお父さんに会いに行った時の二人の会話で、お父さんが語った言葉である。読みながらもズギュンと心を突き刺したのだけど、今こうして改めて書いてみてもホントにその通りだなあと納得感が増す。僕がこの言葉から喚起されるイメージのひとつに、「私たちが生活の場でやりとりしているのは言葉そのものではなく、言葉を通じた何ものかである」ということがある。その「何ものか」は言葉で直接的に表現することはできず、身体同士が共鳴する場でしかやりとりすることはできない質のものである。その共鳴する場にはもちろん言葉も含まれるのだけれど、言葉だけでは不十分であって(と言うよりも時折言葉が持つ明確な意味合いがその場の均衡を崩してしまうことがあるが)、身振り手振り、体温の変動、表情のこわばりや緩み、声のトーンやくぐもりなどの身体が発するありとあらゆるものが共鳴し合いながらその「何か」は行ったり来たりを繰り返す。言いかえればそれは感じ合うことでもあって、だから言葉に偏った解釈はその感じ合いを妨げることになり、言葉の表面に固定された明確な意味解釈が、輪郭のぼやけたその「何か」のふんわり感を貶める。だから自分の感じている想いや考えを説明しようとすればするほどその「何か」は固くなっていき、伝えるべき、あるいは伝わってほしいと懇願する本質的な何かは損なわれる一方となる。

“説明しなければわからないことは説明してもわからない”

これは逆に言えば、説明すればわかることは本質的な何かではなく表面的なものでしかないということでもある。人生についての真理を知るためには言葉だけの説明で事足りるというのであれば、極端な話、とてつもなく分厚いマニュアル本を作成すればよい。生きていく上での困難にぶつかり、どうしようもなく気持ちが沈む時などはそのマニュアル本を開いて傾向と対策を練ればよい。でもそうはうまくいかないことを私たちは知っている。

言葉ではうまく説明できない「何か」が世界にはあって、その世界のほとんどがその「何か」で埋め尽くされている。私たちはその「何か」の存在を感じながら日々を生きている。私たちはその「何か」をどうにかこうにか説明しようとして、「神」や「宇宙」といった神秘的な言葉で語ったり、また邪悪に満ち満ちたものとして経験したりするが、その「何か」はあくまでも「何か」でしかない。たぶんというかおそらく、その「何か」がどういったものあるのかに想像を働かせて、完全にはわからないけれどなんとなくわかったような気持ちを抱くために、私たちは物語を欲するのだと思う。

言葉ではうまく説明できない「何か」が世界を埋め尽くしている。その「何か」がどういったものであるのかは、身体同士が共鳴する場で感じる以外の方法を私たちは持たない。そして、その場には言葉が必要不可欠なわけであり、誠に逆説的ではあるけれど、言葉でうまく説明できない「何か」は言葉を通じてしか伝えることも感じることもできない。

こうしてくどくどと説明しているところに、まだまだ僕には説明グセがあるのだなと突きつけられる。村上春樹は、言葉ではうまく説明できない「何か」を物語に乗せて、連なるメッセージの束として私たちの手元に届けてくれている。『1Q84』を読み終えて僕が直感したのはこのことに尽きるのであった。

村上春樹ファンに毛が生えたくらいの門外漢による、
くどくどとした説明なのでございました。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: 単行本
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
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  • メディア: 単行本