平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「『1対1』という言葉づかい」身体観測第75回目。

 試合後に監督や選手が「1対1」という言葉で試合を振り返るシーンをよく見かける。翌日の新聞各紙に掲載されるコメントにも「1対1」が頻出している。特にサッカーやラグビーなどのゴール型競技では顕著で、「1対1で負ければ戦術云々の話ではなくなる」とか、「1対1での防御が良くなかった」という風に、敗因を語る際によく用いられている。

 「全体は部分の総和である」という思考に基づいたあまりに明解なロジックで解説するこうした風潮に一石を投じてみたい。大勢の選手が入り乱れて勝敗を競うダイナミズムを、個々の場面における優劣で片付けてしまうのはあまりにも惜しいと思うからである。

 そもそも「1対1」の場面で技術的に相手を上回ることができれば、ほとんどの試合に苦労なく勝利することができるだろう。理屈から言えばそういうことになる。個人技で勝負できるような場面を意識的に作り出すだけでよくなり、そこには選手同士の細やかな連携に基づく複雑な戦術など入り込む必要性がなくなるからである。

 だとすると、「1対1」という言葉での敗因の特定は、「結局はフィジカルの強さが物を言う」という深層心理の表れとして解釈できなくもない。さらには「敗因を特定するための作法」との解釈もできる。犯人捜しの心理と同じである。そこには個と個がつながる領域への想像力が働いていない。

 チームスポーツの醍醐味は選手同士の信頼感に基づいたチームプレーにある。阿吽の呼吸でつながるパスに観客は熱狂する。そうしたパスには、する人と受ける人という境目はないに等しい。選手個々が同時多発的に動くことで、流れるようなプレーが生まれるのである。

 個と個のつながりの部分に目を向け、耳を傾けることがスポーツを豊かにする。「1対1」の総和がそのままチーム力にはならないのである。

<09/06/30毎日新聞掲載分>