平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

福音としての言葉。

あっという間に9月に突入。久しぶりに自らのブログにアクセスしたら広告のバナーがべったりと張りついていた。前回の更新が7月の終わりだから当然と言えば当然で、放置していたことのツケがきっちり回ってきたということである。マイブログの玄関口を婚活や借金の整理に関するサイトで占められるのは不本意なので、慌てて更新することにしたのだった。まあ、無料でブログを利用している身としては致し方ないのだけれども。 この週末に読み返した本がある。内田樹釈徹宗両先生が著した『日本霊性論』(NHK出版新書)である。僕は研究室のデスクに「ことあるごとに読み返したくなる本」というスペースを作っていて、デスクトップパソコンの画面横に20冊前後の本を立て掛けている。帰りがけなどにふと目が合ったときに鞄の中に放り込み、帰りの電車か風呂に入りながら読むのだ。ときに背表紙が語りかけてくるときもあり、そうして再読すればささくれ立った心が幾ばくか落ち着くから不思議である。この本はその中の一冊である。 たぶん読み終えた本に書かれていたことは身体のどこかにしまいこまれているのだと思う。だけど、どこにしまいこまれているか、その場所は自分でもよくわからない。ネットのようにワードを入力して検索できれば便利だが、そんな機械仕立てでは情緒がない。誰かとの会話の中でふと思い出し、数珠つなぎように言葉が連なって語ることもあるし、背表紙の語りかけを受けて読み始めたら今の自分に必要な言葉が見つかることもある。探しても見つからないのにふとした拍子に見つかる、そんなもんだ。 たくさんの情報が溢れるこの社会で、情報の洪水に飲み込まれることなくいかに自分の思考を深めるか、言葉を身につけてゆくかについて、ここんところずっと考えていた。具体的にいえばどの情報を受けとり、どの情報をスルーするのかについて、どのように自分なりの基準をもうければよいのか、いささかの迷いが生じていたのがここ最近。そんな僕にはまさに福音となる言葉がこの本には書いてあった。 「固有名を持った発信者から、固有名を持った受信者めざしてまっすぐに向けられるメッセージは受け入れてもよい。おそらくは受け入れるべきものだからです。あなたを指名して、あなたを宛先にしてまっすぐに送られてくる言葉は、あなたの存在を証明し、あなたに存在感を贈ってくれる。あなたを祝福している。それが理解できないメッセージであっても、あなた宛のものであれば、それは「グッドニュース」すなわち福音であるのです。」 まさにこの言葉は自分に向かってまっすぐ向けられているのだと、僕は感じたのだった。まことしやかな情報に惑わされないためには、コンテンツレベルではなく、発信者が固有名を持っているか、そしてその宛先が自分であるかどうかをひとつの基準にする。いつかに熟読玩味したはずの言葉なのに、一回りしてまた一段と新鮮味を増して得心に至る。たぶん経験が追いついたってことだろう。 さらに続けると、この反対、つまり「不特定多数に対して、誰でもいい誰かに対して、自分が何ものであるかを明かさないで告げられるメッセージ」は受け取らないようにすること。「引き受け手のいない思念や感情は、それ自体で邪悪な効果をもたらします」という言葉が、とても身に沁みる。 あらためてまたここから心身を整えていかねば。人生は螺旋状に進むのだ。