平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

再開報告と「感覚的」。

気がつけば半年間も放置していたことになる。書けなくなって、書かなくなって、ブログが抜け落ちた日常生活を半年も過ごしてきたのかと驚きを隠せない。その理由について思い当たることはあるが、それについては書かないでおく。というよりも今はまだうまく言葉にならないだろうし、したいとも、すべきだとも思わないからだ。ということはつまり僕はまだ考え続けているわけで(悩んでいるという表現がふさわしいかもしれないが)、ただいま現在絶賛考え中の、どちらかといえばネガティブな考えなどおそらく誰も読みたくはないだろう。だからここは自制して、長期休養明けのこわばった身体を解きほぐすようにぽつぽつ書き始めようと思う。

まずはひとつご報告。今年度から晴れて准教授になりました。だからといってなにが変わったわけでもなく、いつもの日常を僕は過ごしている。「准教授」という肩書きがひとりでに活動して仕事を片付けてくれるというわけでは決してない。当たり前だけど。正直なことを申せば、どこかくすぐったい気持ちになっているのは否めない。この肩書きに見合う研究ができているのかと問われれば、いやはや、あのそのと、返答に窮するしかない。いつも迷いながら、揺らぎながらあれこれ考え続けていることだけには自信を持てるが、体系立って理論を構築しつつあるとはとても言い難い。断片的な考えや理論をつなぎ合わせて、その都度、筋を通す。こうした工程を日々、続けているというのが実感だ。

「その都度、筋を通す」というのは、言い換えればその場凌ぎの行き当たりばったりになるかもしれない。ただ不思議なことに、その場を凌ぐかのように筋道を立てても結論はそう大して変わらない。一見すれば異なる理路であっても、ゆくゆくは同じような結論にたどりつく。過去に書いたものを下絵にしたわけではないのに(あくまでも意識したわけではないということだが)、結果的に似たような場所に行き着いてしまう(だから僕は、登山口を変えているだけで同じ山に挑み続けているという前向きな解釈をしている)。

ただ、その結論にはわずかばかりの違いが生まれている。以前にたどり着いた時とは、ほんのちょっとだけ肌理が異なる。それが新しい発見となる。

たぶんこれは地図を持たずに目的地を目指すようなもので、2丁目のコンビニの角を曲がっても、3丁目のタバコ屋と焼き鳥屋の間の路地を抜けても、方角さえ間違えなければ目的地にはたどり着ける。でも、その道程では見える景色もすれ違う人も、風の匂いも鳥の鳴き声もそれぞれに異なる。季節が変わればまるで違う道を歩んでいるかのようにも感じられる。目指す場所が同じだとしても歩くたびに印象が変わり、身体は想像以上にたくさんのあれこれを受信していることに気づかされる。こうした道すがらに感じるものをひとつひとつ拾い上げていく。それには鳥瞰的な視座から導きだした最短ルートよりも、好奇心をもとに歩みを進める方が理に適っている。

たぶん僕は、どこまでも「感覚的」に研究をしているのだと思う。感覚的であることとは『「その瞬間瞬間に成り立っていくことでまとまっていく」ということの連続体』だと、竹内敏晴氏は書いていた。遥か遠くに定めたゴールに向けて逆算的に今すべきことに取り組むのではなく、今の自分に課されたテーマの解決に集中する。そこでひとつの答えを導くことができれば、そのまた次の新しいテーマが生まれる。こうした連なりこそが感覚的であるということだ。これと対極にあるのが「マネジメント」という発想であり、「PDCA」で、あらかじめ詳細に下絵を描くというやり方に僕はどうしても馴染めない。

てなわけで僕はこれからも「感覚的」でいく。経験とか記憶とか、知覚とか感覚とか、まるで曖昧な領域を手探りで掘り下げていきます。だから傍目にはええかげんな研究者に見えるかもしれませんが、アイツは「感覚的」だからと見過ごしてもらえればありがたい。いつかはかたちになる、はず。