平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

揺り戻しのなかで。

 再開宣言をしながらまたもや2ヶ月近くも放置することになった。いつからこんなに遅筆になったのかと、自らの変化を恨めしげに思う。

 思い返せばネットで書きなぐるようになったのは2002年。ホームページを自作し、そこで日々の雑感について書き始めた。当時はまだ現役選手だったから、練習や試合で感じたことなども取り上げたけれど、心がけたのはあくまでも日々生活するなかでの気づきや違和感についてだった。

 書き始めて気がついたのは、俺はこんなにもいろんなことを考えていたのかという驚きと、面白がって読んでくれる人がいたことへの自負、そして考えや思いを言葉にすることの困難さと、それができたときの楽しさだった。「わかっているつもりでわかってなかったこと」が書くという行為を通じて前景化され、ときにうなだれることもあったにせよ、でもそれは新たな発見であり気づきであって、こうしたことも含めて楽しくキーボードを叩いていたのがありありと思い出される。

 心待ちにしてくれる読者が増えるたびに、執筆への意欲は増幅していった。

 あれから14年が経ち、否、ほとんど更新しなくなったのが一昨年だから正確には12年だが、どうにも筆が進まなくて往生している。根気強くブログを覗いてくれている方はご存知だろうが、「再開宣言」をしながらもそこからまたしばらくはほったらかしという状態が幾度となく続いている。自らを鼓舞するために敢えて宣言したみたものの、あまり効果はなく現在に至っている。

 まあ端的にはスランプなのだと思う。それも2年以上に亘って。

 部活動でスランプに陥った学生たちに、「後退するのも発達の一部。今より上達するために必要なプロセスなのだから、考え過ぎず、自分なりに工夫しながら練習すればいい」と偉そうにアドバイスをする人間が、自らのライフワークである執筆でスランプに陥っていて、しかもこうしてブログに管を巻いているのは自分でもどうかと思う。

 でもいざここまで書き綴ってみて、やはりこうした右往左往は必要なのだということを実感しているのだからおもしろいものだ。考え過ぎないことの大切さは、実際に考えることを手放さなければわからないってことだ。自らが口にするアドバイスの信ぴょう性をこんなかたちで実感するとは思わなかった。

 やはり書かねばならない。「書けない」というのは、ほとんどの場合「書きたくない」ということなのだ。潜在意識が歯止めをかけているとしかいいようがない。

 なにかの本に、書かずして思考の枠組みを変化させるのは危険であるというようなことが書かれていた。中空に意識をやりつつ、ただ頭の中で思考を巡らすのではなく、書くという行為を通じて思考を深めることが大切で、つまり「書くこと=思考する」なのだと。書く行為を通じて確固たる思想が築かれるのだとすれば、この2年は思考を和らげる、あるいは解体するためにあったのかもしれない。もちろん前向きに捉えれば、ということだが。

 紙の上で思考する。つまり書く。そうして思想は生まれゆく。

 またここに戻りたいと願いつつ、自然の流れに任せておくことにしよう。もう再開宣言はしない。緩めながら固めつつ、固まりすぎないようにまた緩める。こうした揺り戻しのなかで言葉を紡いでいこう。そうして紡いだ言葉こそが伝播性の高い言葉だと思うからだ。

 さて、そろそろ昼ご飯にしよう。